ついに決別の時!?日本人をやめたい!

日本人をやめたい・・・としばしば思うようになった。

「俺、やっぱり部活やめるわ」「アタシ、今の会社やめるわ」といった同列の宣言ではあるが、一体何をもって日本人をやめたことになるのか。やめる宣言をしておきながら、具体的な辞め方がわからない。

そこでまずは、日本人をやめたいと思うようになった経緯を考えてみたいと思う。

世界を見ずして、日本はスゴイと信じ続ける危うさ

日本人をやめる必要性を特に感じたのはこの点にある。ドバイで日中韓の企業の展開を見るうちに、日本人として今の意識のままでいいのか、と思うようになった。

詳細は、下記を参照いただきたい。
日本の存在感は低下している?幻想のジャパン・クオリティ【その1】
日本の存在感は低下している?世界的観光地で存在感増す韓国【その2】
日本の存在感は低下している?中国人観光客はかつての日本人か【その3】

駐ドバイ総領事である道上尚史氏の著書、「日本エリートはズレている」でも同様のことが書かれていた。特に同氏は中国、韓国でも長らく勤めた経験があり、東アジアの事情に精通している。

そんな同氏が述べているのは、中韓含め多くの国が必死でビジネスをしているのに対し、日本のプレゼンスがドバイでは非常に薄いこと、日本は他国から学ばなくなったのではないか、と日本人への警鐘ともとれる発言をしている。

「まっとうに努力しているのは日本。他は”ずるい”か”ラッキー”なだけ」という偏見が日本人の心の中に巣食ってはいないか。

日本人は、「目の色を変えて頑張る、勉強する時代は過ぎた」と錯覚しているのではないか。昔ほどの努力をせずとも日本の将来はまずまずの繁栄が「約束」されていると錯覚しているのではないか。

私自身もつい最近まで、「日本はスゴイ」という洗脳にかかっていた。いや、確かにすごい点はあるかもしれない。けれどもそれは絶対的なものではなく、相対的でなければいけないと思う。

けれども、あえてドバイで相対的に日本を見ることによって、日本はいまや中国や韓国に遅れをとっている、とはっきり意識するようになった。

その上で、ドバイの日本人コミュニティで、日本はいいよね、スゴイよねトークばかりをしていては、さらに中韓に遅れをとるのではないか。ドバイという海外にいたとしても、日本コミュニティ、日本語メディアに囲まれていては、意味がない。物理的に海外にいても、日本ばかりを見て、日本の外を見ていないことになる。

もちろんそれは日本だけに限らない。韓国人だって、中国人だって自分たちのコミュニティの人間としかつるまない人はごまんといる。けれども、彼らはそれ相応のプレゼンスと勢力がドバイにある。

けれども日本はもはやそんなことをしていたら、どんどん取り残されてしまう。それが今の日本が置かれている状況だと思う。要は身をわきまえろ、というやつだ。

アラブ人は親日だから、外人は日本のアニメが好きなんでしょ、なんて流暢に構えてるヒマなど1秒たりともないのである。確かにデフォルトで日本人への好感度は高い。けれども、その好感度とビジネスにおけるプレゼンスの高さは違うことを認識しなければならない。

特殊な日本人であるがゆえの苦しみ

これは、ドバイにやってきた当初から気づき始めたことである。もちろん、個人の性質もあるだろうが、日本文化が染み付いた人間にとっては、多文化都市ドバイでの生活には苦労することが多かった。

その辺は過去にも書いてきたので、参照いただきたい。
海外生活でストレスを感じている人へ。日本人が海外適応するのに絶対的に不利な理由
海外生活を始めて精神が崩壊寸前までに至った結果
海外生活ストレスで廃人になり再び立ち上がるまで。せめて人間らしく
海外で働いて1年、日本的働き方の洗脳を解くのにかかった時間

文化の違いはありながらも、根本的に思うのは、日本語ってあまり役立たない言語だな、ということである。日本語を話す人口は、ほぼ日本人口に等しい。日本語を使う相手はたいてい、日本で生まれ育った日本人である。

しかし周りを見渡せば、英語が公用語である南アフリカ人は、イギリス人やアメリカ人と難なく話している。アラビア語が公用語のシリア人は、レバノン人、モロッコ人、ヨルダン人などアラブ諸国全般の人々と話している。それにアラビア語は国連の公用語の1つであもる。

さらにモロッコは旧フランス領であったこともあり、モロッコ人の多くはフランス語を話す。であるがゆえに、スイス人やフランス人、レバノン人(こちらもフランス領なのでフランス語もよく使われている)などと難なく交流ができるのだ。

うらやましい・・・

極東の島国の人間からすれば、母国語で他の国の人々とも難なく会話ができる状況は夢のようである。そんな夢に近づきたい・・・

けれども言語を勉強するのは無理!ということで、我々はドラえもんの「ほんにゃくこんにゃく」に始まり、自動翻訳機などに期待を寄せてしまうのである。

はっきり言ってしまえば、ドバイ生活において日本人とのコミュニケーション以外に日本語が役立ったことなどほとんどなかった。私は、この言語を「役立たずめ!」とひどく呪っている。

それゆえに常々、日本語を勉強する外国人には警告している。「そんな言語を勉強しても時間の無駄だ。やめとけ」と。しかし、日本好きな外国人たちは私の警告を無視して日本語という、島国でしか使えない言語習得に勤しんでしまうのである。

日本パスポートは最強だ!とは言うけれども、日本語はある意味最弱の言語なのではないか。物理的にはビザフリーで多くの国に行けても、自国の人間とのコミュニケーションを除けば、そうした国で日本語が役立つことはないだろう。

少なくともそれが、日本の外で数年暮らした人間の感想である。

日本人をやめるには?

日本人をやめたいという発想は決して新しいものではない。

1990年に「日本人をやめる方法 」という本が出版された。なかなか好戦的なタイトルである。愛国精神の高い右翼の人間からは、ビンタをくらいそうである。

筆者は杉本良夫という人で、数年日本で働いたのち、アメリカ、オーストラリアで暮らしたという人だ。

同著では、日本人をやめる方法論の前に「日本人論」的な本でもある。日本特有の働き方、日本人の美徳と言われながらも、時には日本人自身を苦しめる日本の価値観など。日本に息苦しさを感じる人であれば、うなずけるものばかりだろう。この本において、「日本人をやめる」ということを以下のように定義している。

ここで「日本人をやめる」とは、日本国籍を放棄するということを直接意味しているのではない。むしろ、日本社会を息苦しくさせている構造、日本文化のなかで自由や自発性を奪いがちな仕組み、日本人の習慣のなかの望ましくない要素などをゴメンだとする行為全般を指している。

そうなのだ。日本国籍を捨てても、必ずしも日本人をやめたということにはならない。日本人を日本人たらしめる何かを捨て去らない限り、国籍を変えても日本人のままなのだ。

日本は確かにいい国だ。恵まれている。けれども、日本がスゴイと一心に信じ続け、日本語だけのコミュニケーション、日本語での情報だけに依存していては、そこに飛躍を見出すことはできない。待っているのは没落である。

日本人であることが、仮に日本人とつるみ、日本語の情報だけを消費し、日本礼賛に乗っかることであれば、日本人をやめなければいけない。単純に異文化に触れ、知る時間が削られる。生まれ故郷や自分の言語を半ば拒絶するのは、辛いことである。しかし、日本人であるがゆえに己の飛躍が阻まれるのであれば、決別もやむを得ないのだ。

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