ドバイで働くまで、一度も男女のジェンダーギャップなるものを気にしたことはなかった。確かに、女性の役職が低いだの、女性の給料が低いだの、ワンオペ育児など女性を取り巻く問題は多数ある。
それはどの国にもあるような普遍的な問題だと思っていたのだが、そうではないということにドバイにやってきて気づき始めた。
うわっ・・・日本の女性ってめっちゃ大変じゃね?というか扱いがひどい。
日本の”当たり前”は、世界では”異常”だった
子どもや女性を大切にするイスラーム圏ということもあってか、そのギャップは如実だった。
メトロでは、妊婦をみたら一目散に席の譲り合いっこが始まるし、わざわざ赤の他人までもが「この人妊婦です!席譲ってください」など大声でとのたまうのである。
こういう時、己も含め日本人って、人間として当たり前のことができないよな、と思うのである。
日本であれば、妊婦の女性がマタニティーマークをぶらさげ気付いてもらうまで、奥ゆかしく待つという戦術が一般的のようだが、一体どんな辱めの刑だよ、と思うぐらい普通に考えればおかしなプロセスである。席に座るだけなのに。
女性は出産、結婚があるのでキャリアをあきらめなければいけない、といった風潮が日本にはあるようだが、そんな空気は微塵も見当たらない。
1~2ヶ月休みをとって、また職場に復帰する。それを迷惑だの文句をいう人は、いない。もしいたとしたら、もはや人間ではない、という目で見られるだろう。
むしろ有給を使うかのごとく、自然のサイクルとして捉えられている。
これが世の”普通”であれば、日本で女性として生きていくことは、茨の道に値しよう。
不当な扱いが社会の当たり前になった結果
ドバイと日本を比べてもしょうがねえだろ、と思われるかもしれない。確かに比べてもしょうがないし、日本よ、世界を見習えとも思わない。嫌な人は、さっさと日本を出た方がよい、というだけの話である。
しかし、本当に恐ろしいのは、当の日本人女性たちが”不当な扱いをされている”という事実にすら気づいていない、ことなのだ。
確かに、私も日本にいたころは気づかなかった。それが当然だったからである。けれども、日本を離れてみると、あれってずいぶんと、ひどいことだったんじゃないかなあと思う。
告発するほどのめぼしい体験はないが、新卒の時、日系会社の就職面接で「結婚したら仕事どうすんの?」などと聞かれ、そんな未来のことを聞いてどうするんだ?と思ったぐらいである。
そもそも結婚することと、仕事の能力になんの関係があるのか。よく理解できない質問だったので、以後、私は外資でしか働いていない。ドバイでそんな質問をしたらサイコパス扱いで、人事からイエローカードを食らうだろう。
こうした扱いを、おそらくほとんどの女性たちはありがちなこととして、 “プチおこ”レベルで流してしまうのだろう。それが問題なのである。
ジェンダー格差ランキングは下から数えた方が早い
世界経済フォーラムで2021年に発表されたグローバル・ジェンダー・ギャップ・レポートによると、ジャンダー格差総合ランキングで日本は、156カ国中120位にランクインした。
日本のパスポートは世界最強だと喜んでいる場合ではないのだ。しかし、当の日本の政治を牛耳るのは男たちであるから、これを問題視する人はいないのだろう。
120位は総合ランキングで、分野別にみると中でもひどいのが、政治や社会進出の分野である。収入の格差や管理職や専門職での女性の少なさにおいて、ランキングが特に低い。
ちなみにこの手の問題は、あまり日本では大々的に報じられない。日本の本当の問題は、日本よりも海外の方が報じているというケースはよくある。
あらゆる形で消費される女たち
日本において女性の”商品化”は凄まじい。ありとあらゆる種の風俗からアイドル、メイドカフェといった類のものまで、あらゆる形で女性やそれに付随するサービスが商品として消費されている。
それが当たり前の日本であれば、不思議に思うことはないが、それがない社会にいると、違和感を感じざるを得ない。というか異常だ。
日本人は、日本を安全だというが、そうした”女の消費”が大っぴらに行われない社会からすれば、危険だらけである。
もしも、私が娘を持つ母親であれば、女を消費することが公然で堂々と行われる社会では、子供を育てたくないと思う。
そして、日常的に女性は常にカワイイか、否かという選別にさらされる。”カワイイ”というのは、日本特有の感覚である。海外で”カワイイ”は、幼さととらえられるので、大人に”カワイイ”といってもお世辞効果はない。
バラエティ番組での女性芸人のブスいじりがあるかと思いきや、”カワイイ”という点を重視して選抜され各テレビ番組に花を添える女子アナ。
アメリカ、ヨーロッパ、中東系のニュース番組も見ているが、たいがいキャスターは1人である。男性キャスターやメイン司会者がいるのにも関わらず、わざわざ女子アナを据えるのは、日本のテレビ番組ぐらいである。
しかも、リードするのは必ず男性。基本的に女性アナウンサーはフォロー役に徹する。
本当に能力があるならまだしも、大半の場合はヒト型ロボット、ペッパーですむような役割である。
しかし、テレビを見る視聴者や制作する側にとっては、可愛い女性が存在することに、重要な意味があるらしい。だから、能力的にはどうであれ、彼女たちは必要不可欠なのである。
女性の外見、とりわけ美しさよりも可愛さ&幼稚さをここまで重視する国は、日本ぐらいなんじゃないかと思う。文化のユニーク性という観点からいえば、それで結構だが、世界的にみれば変わった女性観が蔓延している。
女性の”無知”も格差に加担している
正直に言えば、女性自身もそうした状況に持ち込んでいるのでは?と思う。
婚活で言えば、高年収の男と出会うために並々ならぬ努力をしているらしい。「なんでもします!ついていきます!」という態度は、自ら従属宣言をしているように見えてならない。
そんな相手をつかむために努力するぐらいだったら、自分で稼ぐことを考えた方がいいんじゃないか、とすら思う。その方が、よっぽど長期的に見ても安定しているし、融通が利くのだ。漫画家、西原恵理子の言葉を借りれば「寿司は自腹で食べた方がうまい!」ということである。
リテラシーだって、教育レベルだって相当高いはずのになぜか就職となると、格差が拡大していくのだ。やればできるはずなのに、「専業主婦になりたい」だとか「事務職でいい」といって自ら放棄するのは、「女はそういうもの」という意識がいまだ一部の女性の中にはあるのではないか。
結局言いたいのは、日本社会における女性の地位の低さを、女性自身が認知する必要がまずある。おかしいなー、変だなーと思うのは、不当な扱いを受けているから当たり前であって、もっと疑問を感じなければいけないのだ。
消費されるための可愛さを生成するために、金と時間を費やしている場合じゃないのだ。本当に考えるべきは、そうした価値観と距離を置き、どう自立して生きるか、だ。