童貞は早く捨てた方がかっこいい。
これが現代の日本における一般的な通念だろう。童貞を早く捨てるほどイケてる☆という考えである。
あまりも童貞喪失の時期が早すぎると、チャラ男などという不名誉な称号をいただくことになるのだが、逆に遅すぎても異性から選ばれなかった男として、世間の奇異の目にさらされることになる。なかなかデリケートな問題である。
童貞&処女喪失でドン引きする社会
一方で必ずしも童貞は早く捨てるべし、という概念が存在しない世界もある。そうした世界では、結婚もしていないのに童貞も処女も卒業していたら、人々はドン引きする。
場所によっては、ドン引きだけでは済まず、嫁入り前に処女を失った娘を、家族の恥と考え、家族自らが娘に手をかけることもある。いわゆる「名誉殺人」というものである。
童貞の話なのに、「殺人」という物騒な単語が飛び出てこの先、血なまぐさい文章が続くと思われた方。この先にはポップな童貞ストーリーが続くのでご安心を。
私の友人に、シリア生まれのパレスチナ人がいる。彼はイスラーム教徒であり、童貞である。
こちらから聞いたわけでもないのに、彼は自ら童貞であることを公言している。
他人のプライバシーをこのような形で公表してよいのか、と思うかもしれないが、彼は個人情報流出マシーンなのである。
聞いてもいないのに、己の月収やローン返済事情、はたまた現在気になっている女性などについて、逐一アップデートしてくるのだ。
普通の人であれば、ためらわれることも、彼によれば「今日の朝ごはんは、何某を食べたんだよお」という、どうでもいい個人情報と同列に扱われるらしい。
童貞を捨てるのは結婚するとき
話を少し戻すと、彼が生まれ育ったシリアやパレスチナは、イスラーム教の国である。現代の日本人から見るとやや保守的な習慣なり、考えを持っている人も多い。
結婚においては貞操が重視され、一般的に男女が童貞や処女を捨てるのは結婚をしてからである。婚前交渉は許されない。
結婚もしていないのに、むやみやたらと付き合ったり、一夜を共にするのは、ハレンチねえ・・と世間から後ろ指をさされる世界である。
ちなみに貞操を重視するあまりに、結婚初夜の翌日に、鮮血がついた白い布を近所にかかげ、「やはり我妻は処女でありました!」などと報告する習慣も一部地域では見られることもつけ加えておく。
こちらからすると、ぎょっとするものであるが、彼らは貞操にかけて誠に真剣なのである。
「こっそりやればバレないのでは?」と聞いたこともある。しかし、彼らが生活するコミュニティは狭く「どこそこのお嬢さんがあそこの男と一緒に歩いていた」ということが、住民によって頻繁に告発されるため、人目を忍んでどうこうという問題ではないらしい。
ちなみにこうした社会を「遅れている」とか「ダサい」といった言葉で片付けるのは早急である。日本にもかつてこのような時代があったのだ。
NHKの世論調査によると、1973年には58%の日本人が婚前交渉はすべきではないと考えていた。
さらに明治時代まで遡ると、婚前交渉はNGだと考える日本人がさらに多かったことが分かる。
NHK、日本人の意識 40年の軌跡(1)より参照
何ということか。ムスリムの人々の貞操観念は、まるで明治時代の日本人のようではないか。
しかし、時代とともに婚前交渉反対派は減り、今では愛情があれば婚前交渉もOKと考える日本人が半分以上を占めるようになっている。
こうした事実を鑑みると、現代の日本人から見た彼らの”保守的な価値観”というのは、我々の過去を振り返るようでもあり、決して遠い国の話ではないのだ。
美女に迫られても、俺は童貞を守った
そんな社会で生まれ育った友人なので、自ら童貞を公言する時、そこにはなんの恥らいもなく、一種の誇りすら感じる。童貞であることを恥らい、ひた隠しにしようとする、日本の青年諸君とは真逆である。
その証拠に、いくつかの「俺はそれでも童貞を守った」エピソードを聞かせられたことがある。
イラン美女の家に上がり込み、ベッドまで連れ込まれたものの、一線を超えなかったという話や、アゼルバイジャンのセクシー美魔女から直球のお誘いがあっても、俺は断ったのだ、という話など。
はたから見れば、俺はモテる自慢のように見えるが、本人の口調にはそうしたうぬぼれがない。
はたから見ると彼は目鼻立ちが整っているイケメンである。
私個人の解釈だけだと、単なる個人の嗜好によるのではと思われるかもしれない。しかし、彼は各国の美女にアプローチされているあたり、第3者お墨付きのイケメンである。
アラブ人だが、見た目はややヨーロピアンな感じ。ヒゲは濃くない。本人は、ヒゲが生えてこなくて悩んでいるようでもあるが。さらに彼は最近では、筋肉マニアの女子には嬉しい、シックスパックを育成することに精を出している。
モテるための戦略なのかと聞いたが、単純に加齢して己の体がたるむのを防ぐためだという。
童貞ではあるが、それでも女子に鼻の下を伸ばしていることは確かだ。
インスタグラムでセクシー美女の投稿を見ては、連れの男たちとキャッキャしたり、その気もないくせに、「セクシー美女から、また誘われちゃったよお」などと言っているあたり、女に興味があることは間違いないのだ。
自由恋愛で人は本当に幸せになるか
それでも目の前のイケメンが、欲望に負けず頑なに童貞を貫き通しているのが、不思議に見えてならない。彼が守っているのは、童貞以上のものがありそうだ。
芸能レポーターのごとく、「そんなに女性からアプローチされるのだったら、いっそのことやってまえと思うことはないのか。イケメンを活用しきれてないぞ」としつこく聞いてみる。
彼はこう答えた。
「結婚を前提にしてない付き合いだなんて、誰も幸せにならないだろ。相手を幸せにする自信もないし、むしろ不幸にするからそんなことはしない。
イスラーム教徒の友達でも、酒を飲んで婚前交渉をしているやつもいる。でも、そいつらの話を聞くたびに、やっぱりろくなことがないんじゃないかって思うんだ」
なんと高尚なお言葉。
私が四半世紀を経てようやくたどり着いた境地に、この男はすでにいたのだ。
この瞬間、彼の背後に後光を見た気がした。経験を経ずして、経験した者と同じ境地にいる。この者は何奴。
そしてその後光が照らしたのは、私を今まで取り巻いていた価値観とそれに対する疑問であった。
童貞を卒業していることや、恋人がいることが一種のステータスになっている社会。経験人数が多ければ多いほど、すげえ!などと崇める一派も存在する。
それを裏打ちするのは、童貞であることや、恋人がいないやつはカッコ悪い、もしくは何らかの引け目を感じる、という空気。
そうした社会では、青年諸君はこぞって童貞を卒業しようとし、恋人作りや異性に近づくことにいそしむ。
極論を言えば、性体験がそこそこあり、恋人がいることが経験豊富な人生につながり、充足した日常を送れるのだ、という信念をどこかで抱いているのだ。それらがない人生は、灰色のくすぶった人生とでも言わんばかりに。
そうした社会からみれば、童貞であることは惨めなことで、自由に恋人を作れないのは、哀れむべき状態である。
この瞬間まで、私もそうした目で友人を見ていたのだ。
だからこそ、イケメンなのにその武器を使わずして、結婚に直行するのはもったいない、人生を楽しんでいないのでは、とすら無意識的に考えていたのだ。
あまりにもあっけらかんと、童貞自慢をする友人を前に、がつがつと童貞だの恋人だの語っている自分の方が、哀れなのではとすら感じた。
童貞でもええじゃないか
考えてみれば童貞で性体験がなくとも、彼の日常は充足している、ように見える。翻って我々の世界はどうだろう。
家族やコミュニティの人目を気にすることなく、自由な恋愛ができて、欲望のままに異性と一夜を共にする社会で、人々は本当に幸せなのだろうか。
世の中の声にじっと耳を澄ましてみる。
聞こえてくるのは、長年付き合った末に結婚できず別れただとか、恋人への不満、浮気、もはや我が手に負えぬということで、大金を支払い結婚相談所という第3者に泣きついて世話を焼いてもらう人々など、パンドラの箱状態である。
一見、自由を謳歌できる時代にあっても、その自由が必ずしも個人に幸せを授けてくれるわけでもない。自由を手に入れることで迷いの森に入り込むこともある。
後光が照らし出す先は、童貞消失などどうでもよい世界だった。
性体験があるからなんだ。あるからといって、人生の楽しみも社会的ステータスも変わらんぞ、という世界である。
このやりとりから1年後。彼は結婚をした。結婚相手も、また処女である。彼は、そういう人を選んだ。
「これで、童貞を卒業できますねえ。旦那」
などとはもう言わない。童貞を卒業することが評価に値しない世界では意味をなさない。宇宙のチリと化すだけだからである。
だから、にこやかに「おめでとう」とだけ伝えた。