この世でこんなことを真面目に悩んでいる人間は、他にいるのだろうか。
しかし数日に渡り、私は公共の場において己の乳首を出すべきか、否かという問題について真剣に考えていた。
キットカットへの衣装を無事手に入れたが、新たなる問題が発生。衣装を身につけたものの、ほとんど紐なので、四捨五入すればほぼ裸である。そして、胸はいわんや乳首がポロんと出ている。過激かつユニークであれ、というのがキットカットのスローガンなので、乳首の有無はこのスローガンに大きく関わってくる。
しかし、解決策は簡単なことだ。乳首隠しシールを貼っちまえばいい。事前調査によれば、大半の女性は、ばつ印や星型のシールを貼ってやり過ごしている。もしくは無難にブラを着るか、胸が隠れる衣装を身につければいいだけの話である。
実際にブラをつけてみたが・・・
つまらん!
これじゃダメだ!
こんなんじゃキットカットで受け入れてもらえない!
凡庸なブラをつけることによって、クリエイティビティが失われるじゃないかっ!
そう。大事なのはアートとしての見栄えと完成度であって、常識や羞恥などはどーでも良いのである。
・・・・
よし、乳首さらしスタイルでいこう。
しかしセックスクラブといえども、一応は公共の場だから、公共の場で乳首をさらしても良いのだろうか・・・と考える真面目な自分もいる。
考え抜いた結果、自分では答えが出せずにチームキットカットの生物学的男性メンバーに聞いてみる。
「キットカットの衣装なんだけど、乳首は隠した方がいいと思う?」
「えっ。別にどーでもよくね?」
なんだその軽い答えは。
こちとら何日も深刻に考えているんだぞ。
おそらくこれは乳首に対する男女の認識の相違からきているものだろう。男性は、気軽に乳首を出しても何も言われない。一方で女性は乳首をさらせば、一大事である。そう、同じ乳首とはいえ、男女の乳首は平等ではないのである。見えない圧力によって、女性の乳首は公共の場では「罪」となるのである。そう、女性の乳首を罪にしているのは、人間であって、乳首自体は何も悪くない。
一体何を言っているんだ・・・
自分でもそう思う。しかしその時になって私はようやく気づいたのである。
———去年の8月のベルリンにて。
初めてベルリンを旅行で訪れた時のこと。昼の公園でまったりしていると、女性が洋服を剥ぎ取り、上半身裸になった。その姿を見て私は「ぎゃっ」と驚いた。しかし一緒にいたドイツ人女性は、「ドイツでは最近、女性も公共の場でトップレスになることが許されたのよ。それまでは、男性は公共の場でトップレスになれるのに、女性がなれないのはおかしいっていう論争があったの」とにべもなく言った。
女性がトップレスになれないのはおかしい・・・?
その時はまるで意味が分からなかった。
けれども、めぐりめぐって今、勝手な乳首論を展開している私は、あの時の彼女と同じじゃないか。ベルリンに移住してまだ4ヶ月しか経っていないが、すでにベルリンは私の思考を侵食しつつあるようだった。これは悲しいことなのか、嬉しいことなのか。
というわけで、私が下した結論。
己の乳首を民衆の前でさらす!
なぜならドイツ人は自然愛好家(?)だから、乳首も自然なものとして許してくれるはず!
もう自分でも何を書いているのかワケがわからない。読者はいわんやであろう。繰り返すが、露出願望があるわけではない。そしてこれはエロの問題でもない。表現方法の追求と社会学的な観点でこの問題を取り扱っているのである。
———数日後。キットカットクラブを経て。
私は人生で初めて6時間近くに渡り、公共の場で己の乳首をさらし分かったことがある。
まず1つ。自分の乳首が外気にさらされることで、どのように形状変化をするか、を知った。思えば、乳首というのは、勝手な罪の濡れ衣を着せられ、いつもブラの下に秘蔵されている。自分の体なのに、それと真正面からじっくり向き合ったことがない。親子なのに、子どもにも自分の知らない一面があることを知った時のような衝撃である。
そして2つ目に、やはり衛生面からしてあまりよくないんじゃないか、ということ。なぜなら同じ乳首であっても、女性の乳首から母乳が出るが、男性からは出ない。だから本能的に他の女性たちのほとんどは、どれだけ過激な格好をしていても、乳首だけはシールで隠していたんじゃないか。というか乳首を隠しても、クリエイティビティは損なわれないというのが、キットカットにいる人々のファッションを見て分かったことだった。
というわけで、私がたどりついたのは、女性の乳首は衛生面からしてカバーした方が良いという結論だった。