外国人はみんな日本のことが好きだと思うなよ

日本賞賛の番組がテレビに蔓延している、というのは今に始まったことではない。それらを見ていると、日本人は世界の人に愛されている、好感度が高い国民なんだぞお、と自尊心をくすぐられる。見ていて悪い気はしない。

日本にいて、そうした番組だけを見ていれば海外では、日本というのは一様に愛される国民なのだと思い込める。

日本への好感度は本当に高かった・・・

実際に、中東諸国にいるとそんなことをヒシヒシと感じる。日本の番組は大袈裟なんじゃないか、と疑い深い私でも、周りにいる親日家たちの多さを目の当たりにすると、確かに日本への好感度は高い。

日本の包丁やレコード作成技術などマニアックな日本の長所を見出し、日本文化を愛でる人もいれば、小さい頃からアラブ諸国で放映された日本の番組を見て、日本に親しみを覚えている人もいる。彼らは決して、日本に住みたい!というほど熱心な日本マニアではなく、ごく一般の庶民である。

職場で働いていても、何やら日本人というだけで、「あの日本人と働けるなんて誇りに思う」などという人もいるぐらいだ。日本人に遭遇したことがない人にとっては、日本人と働けるというだけで、大変なときめきを感じてしまうらしい。こちらとしては、そんな”憧れの日本人”であり続けるため、粗相はできないというプレッシャーを感じてしまうのだが。

日本も中国も同じだろ

一方で、中にはこんな人もいる。

「日本?ああ、ジャッキー・チェンだろ。日本と中国は同じじゃないのか?えっ、違うのか。日本と中国は同じ言葉を話すんじゃないのか」

「フクシマだろ?ちなみにお前は、放射能の影響を受けているんじゃないだろうな?」

我々からすれば、信じがたいが日本と中国が同じになっている人もいる。日本も中国も同じ。そんな世界もあるのだ。

それに、ヒロシマ関しては、いまだに原爆の影響が残っていると思っている人が圧倒的に多い。

これらはほんのごく少数だが、それでも日本に無関心な人々というのは一定数存在するのだ。世界に愛される日本国民という洗脳を受けた人間にとっては、ちょっとした洗礼である。

そんなことも知らないのか。失礼なやつだ、と思うかもしれない。不覚ながらも、私もそうした発言に、何か違和感を感じるものがあった。

無知と既知の世界はまったく別物

ところが、「まんが アフリカ少年が日本で育った結果」というエッセーを読んでいるとその真逆のことがかかれていた。

ちなみに筆者はツイッターにもその漫画の一部を掲載しているので、そこから紹介しよう。

我々日本人だって、よくわからない遠すぎる海外に対しては、結構な無礼をかましているのだ。つまり、人間というのは遠すぎる世界に対しては、ほぼ適当なイメージしか持ち合わせないということが分かる。

ドバイにきて初めて、インド人とパキスタン人が同じように見えて結構違うことや、アイルランド、イギリス、スコットランド人たちの間に流れる微妙な空気感が存在することを知った。

そういった意味で、国や文化が違う人間たちと暮らすことは、己の無知を実感する場でもあり、逆に知りたいという好奇心をかき立てる。正直に告白すると、私はイスラム教に改宗するまで、預言者ムハンマドというのは架空の人物だと思っていたぐらい、イスラム教について無知だったのである。

預言者ムハンマドというのは、イスラム教徒たちにとってはカリスマ的な存在である。アムラーにとっての、安室奈美江みたいなものである。

その後、なんとか預言者ムハンマドは、私の中では実在した人物となった。預言者ムハンマドが架空の人物だった世界と、実在した世界では、ものの見え方も大きく違った。

そんなわけで、日本と中国は同じだという世界観で生きている人や、日本はフクシマやヒロシマがある危険なかおりがする国、というイメージを持っている人もいるのだ。

日本をよく知らない人もいる。というか日本何それ?という人の方が実は多いのかもしれない。

そんな時に思うのだ。我々は一体世界をどこまで知っているのだろうと。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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