ブログでもすでに書いたように、私はドバイの会社を辞めて、ドバイを去ることになった。
次の展開は、明確には考えてない。
人生2回目の無職
私は日本やドバイで何度か転職をしているが、会社を辞める際には、必ず次の仕事を見つけてから辞める、というのが私のポリシーであった。
しかし、今回だけは違った。
ノープランで会社を辞めたのである。これには、自分でもびびった。もちろん、次の仕事を探すモチベーションも持ち合わせていない。
つまり、積極的に無職になったのである。
今までの自分からすれば、正気の沙汰ではない行動である。将来や次の仕事に一切、不安をいただかない、強気の無職。それが今の私である。
ちなみに、私が無職になるのはこれで2度目である。
1度目は、予期せずして無職になったため、不安と心配でおどおどしていたが、2回目の無職ともなると、無職ライフをありのままに楽しむことができ、無職が板についてるという状態だろうか。
世間で無職といえば、あまり良いイメージはない。むしろ、人々は積極的に回避する状態である。
強気の無職になるまで
いかにして、強気の無職となったのか。
日本に長らく住み、またドバイに住み始めた頃、私は常に、仕事は常にしてなければいけない、仕事を一度やめると復帰しづらくなる、将来のためにお金を貯めるのが良い、といった考えに囚われていた。
いや、それはそれでありなのだけれども、当時の私はそうした価値観しか持っていなかった。
けれども、ドバイ生活やドバイ近隣の国を転々とすることで、それは変わった。
日本のように安泰した国であれば、人々はずっと先の将来のことを考える。結婚したときのために、病気になったときのために、リタイアしたときのために。
一見すると不確定な未来ではあるが、日本は成熟して安定した国なので、多くの人々は、それがほぼ必ずやってくるものだと信じる。
そして思い描いた未来に沿って、人々は現在の行動を決める、と言えるかもしれない。
一方で、将来的な安泰が約束されない国や状況においては、人々は今を生きることになる。もはや明日、1ヶ月後何が起こるか分からない状況では、輝かしい未来予想図など立てているヒマはないのだ。
何これ、いいじゃん?
今まで、ぼやっとした1年後、5年後までを考えて生きてきた人間にとっては、”今を生きる”というスタイルがひどく新鮮で、魅力的に思えたのである。
とはいえ、目の前にいるのは、その日暮らしをするシリア難民だったり、母国への家族送金に勤しむ外国人労働者だったりするのだが。
イラクやソマリアなんかへ行くたびに、いつ何が起こるか分からない、という気分になる。いや、その何かが起こるのは死ぬ確率よりもずっと低いのだけれども。
未来志向よりも今志向
そうしたことを考える度に、こんなことを自問するようになった。
今を大切に生きているだろうか
今を楽しんでいるだろうか
今できることをやれているだろうか
日本にずっと住んでいたならば、いつかやれるだろう、今はムリだけど将来的には・・・と思うことが多々あっただろう。
けれども、そんな悠長な願望を受け入れてくれるほど、世界は甘くなかった。世の中には、相当トチ狂った輩もいるし、人間の手にはを得ないことも、多々あるのだ。何が起こるか分からん、というのが常なのである。
だったら、今をエンジョイした方が得じゃね?
未来のために今を我慢するなんて、もったいねい!
というわけで、未来を完全に無視し、今を生きようとなった結果、無職になったのである。
見ようによっては、嫌なことから逃げてると思う人もいるかもしれない。けれども、嫌なことをやり続けて、いいことは何一つないのである。廃人寸前になった実体験からの教訓である。
時間は限られている。平均寿命が80年だか、100年だかといったって、それに期待してはいけない。嫌なことをやって、精神に異常をきたし、体調を崩すヒマなどないのだ。
そうなる前に、さっさと見切りをつけて、別の道を探した方がよいだろう。
未来のことを考えれば、無職は適切な選択ではないかもしれない。けれども、今を拠点に考えると、正解のようにも見える。
だからこそ、無職という道を選んだと思う。