ZOZOの前澤社長が総額1億円をプレゼントするというお年玉キャンペーンについて、賛否両論の声があがった。
批判の声に耳を傾けると、「お金をばらまくだなんて下品だ」だとか、「自分だったら後ろめたくて、とてもじゃないけどできない」などなどである。
日本にいれば、自分も「そうだな〜下品だな〜」と思うだろうが、海外に出てお金の考え方が変わった今では、そうした批判はいかにも日本人らしいなと思う。
お金の話上等!金の話をして何が悪い
ドバイにいると、ほぼ毎日のようにお金の話をするのである。
会社でもプライベートでも、ずけずけと人々は金の話をする。「3万も罰金とられたよ〜」だとか、「家賃いくら?」「あの人の給料、これぐらいらしいよ」「投資をいくらしてる」などととにもかくにも、金の話である。
とりわけ親しくない間柄であって、上司や部下の間でもこのような会話が真昼間から、取り交わされる。
聞かれた方も、即答である。「今日の朝何食べた?」と「家賃なんぼ?」は同列の質問なのである。
まだドバイに来たてほやほやの頃。タクシーの運ちゃんに「お姉ちゃん、給料なんぼもらってんの?」と聞かれたので、世界はお金の話をオープンにするという世間の常識を知らなかった私は、島国根性をむき出しにしてムッとした。
「あのな、お兄さん。いくらなんでも会っていきなりの人に給料聞くなんておかしいやろ。失礼やわ。せやから、答えまへん!」
ドバイに来た当時は、とにかく金金金ばかりで、嫌になった。この拝金主義野郎めっと何度悪づいたことか。この辺は、過去の記事を見返してみるとよく分かる。
お金の話をおおっぴらにするのは変態?
しかし今では、お金の話をすることが当たり前すぎて、聞かれたら何でも答えるようになっている。いや、隠す必要などどこにあるのだろう。日本にいたら、お金の露出狂あつかいされること間違いなしである。
実際に、自分の年収や投資額、高いものを買ったなどと公の場でいう人を、「下品!」などと一部の日本人はいう。日本でお金の話をおおっぴらにする人は、変態扱いなのだ。
日本に一時帰国した際に、茶道体験をした時のこと。何やらご立派な壺が置かれていたので、「これはいくらですか?」と質問した。
同時に、相手から「えっ?そんなん聞くの?」みたいな空気が漏れ出たのを感じ取った瞬間、「あっ、やべえ。間違えた」と己の誤りに気づいたのである。
日本人感覚でいえば、今の自分はものすごおく、下品な人間なんだ、と。
このギャップにより、「ああ、日本人は金の話を汚い、と思っているからみなお金の話をしないんだな」というこに気づいたのである。
ちなみに日本人は、どこかあべこべな感覚を持っている。お金に対しては「下品」だというのに、「結婚してるの?」「何歳なの?」ということは、下品だと思わず、ずけずけ聞いてくる。
こちらからすると、プライバシー侵害もいいとこで、下品である。ムスリムに限っていえば、母親の名前や年齢を聞くと、相当嫌な顔をされる。
金の猛者は、真剣にお金に向き合っている
とりわけドバイは、常に金のことを意識する都市である。日本人からすれば、もはや、ど変態すぎて耐えられないかもしれない。
ドバイへやってくる移民のほとんどが、出稼ぎ目的である。ヨーロッパ人もオーストラリア人も、インド人もフィリピン人も、である。つまりは金。金に突き動かされた連中によって、回っているのがドバイなのである。
ドバイにとっても、金を生み出さない、持ち込まない人間には用はない。金の切れ目が縁の切れ目で、金を稼げなくなれば(仕事がなくなれば)サラバするしかない。
ドバイは、いつも金のことを考えている。どうやって儲けようか。
なぜここまで必死なのか。常にラグジュアリーで、経済的に成長してまっせ、というイメージを保つためである。
このブランドイメージを保つためにドバイは、アンチエイジングに必死な女性のごとく、並々ならぬ努力をしているのだ。
私はアンチエイジング・・・ではなく金稼ぎに必死なドバイを疎ましく感じている。けれども、よくみると「そんな方法で金を稼ぐのか!」という意外な発見の連続である。
金金いうドバイは、日本人からしたら変態からもしれないが、逆にいえば、真剣にお金を稼ぐことに対して向き合っている。自国民の労働力も産業もあてにできないから、いかにして経済を成長させるのか。それを必死に考えた結果が、今のドバイであると思う。
かたや日本人はどうか。お金は下品といって、家族とも友達ともお金の話をしない。妄信的に「貯金は美徳」だと信じ込み、ただひたすら金を溜め込みまくる。結果、死ぬときに持っている貯金額が、世界でも飛び抜けて多いという、訳のわからない現象が起きている。
お金を下品という日本人は、お金の扱い方も知らない
本当に知るべきは、いかにお金を楽して増やし(勤勉が好物な日本人からすれば、ブー!といいたくなるだろうが)、お金をうまく使うかであろう。そのためにも、お金に向き合わなければいけないのである。
同年代のインド人と話していて、彼のお金に対する知識に驚かされたものである。ごく一般教養として、銀行の選び方、資産のもち方、金の売買等などを上品にもち揃えているのである。彼いわく、小さい頃から父親にこうした話を聞かされていたらしい。
かたや、私。何も知らない。両親よ、なぜお金の話をしてくれなかったのか。生きていくのに大事なことなのに!といっても仕方がない。自分で向き合うしかない。
お金は汚くてもいい。ただし、汚いと煙たがることで、お金との向き合い方もわからないままになる、ということにも気づくべきなのだ。