日本人ほど生ものに抵抗がない民族は存在するのだろうか。
各国の料理を食べ歩く中で、ふと疑問に思った。他の国の料理にまったく生ものがないわけではないのだが、数は圧倒的に少ない。
一方で、日本の食卓に生ものが上る確率は高い。卵かけご飯、刺身各種。毎日生ものを食べていてもおかしくないのだ。
生ものは本来危険だったはずが・・・
しかし冷静に考えてみれば、生ものというのは危険である。人類が生きるためにあれこれと工夫して魚や肉を食べるようになったのに、あえて危険をおかしてまで生ものを食べる、というのはおかしい。
特に毒があるというフグをあえて食べようという心意気は、人類の歴史から見れば狂気である。むしろ逆行ですらある。
そんな危険な食べものを心配性な日本人が、喜んで食べるのは日本の圧倒的な衛生レベルの高さゆえなのだろう。
なぜ「危険」な生肉を食べるのか
エチオピアの生肉料理、「クトゥフォ」を目の前にして、そんなことを考えていた。
あえて知らない料理を食べてみよう、というだけのはずだったが、あえて生ものを選んでいるあたり、生ものに抵抗がない日本人らしさを自分の中に感じてしまったのである。
しかし、同じ生もの料理とはいえ、「エチオピア料理」というだけで、生もの大好き日本人もちょっとひるんでしまうのではないか。まさに私がそれである。
なにせ、日本人は高い衛生状態で調理された日本の生ものだから、安心してたべるのであって、エチオピアという未知の国の生もの料理というだけで、そこにはある種の「危険」がつきまとう・・・と脳は無意識に考えてしまうらしい。
食に保守的な人々
生きることが最優先だった時代、未知のものは「危険」なものであるから、普通であれば人類は手を出さない。
普段は埼玉県ほどの大きさの都市で暮らしている人間が、「人類」などという壮大なキーワードを持ち出した理由は、「ホモ・デウス」という本に感化されたからである。
現代においても、多くの人々は食に対して保守的だな、と周りを見ていて思う。
各国の同僚たちと食事にでかけても、みな食べるのは自分がいつも食べている料理に近いものである。
ランチを見ていてもアラブ人は、だいたいアラブ料理、インド人やパキスタン人はビリヤニやカレー系が多い。決して、寿司やイタリアン、タイ料理などといったものは、彼らの目の前には現れない。
インジェラは本当に不味いのか?
肝心の「クトゥフォ」が放置プレイ状態になっているので、話を戻そう。
出てきたのはミンチになった肉の塊。ユッケやレバノン料理のクッベ・ナーイエと似ている。ちなみに他にも「テレスガ」と呼ばれるぶつ切りの生肉料理もある。
インジェラの分量多くないか・・・?
見た目に安心したのも束の間、「クトゥフォ」の横には「アイブ」と呼ばれるチーズ。そして、下にはどでかいインジェラときたもんである。
やっぱりインジェラか・・・
米を愛する日本人が、焼肉でも白米を頼んでしまうように、エチオピア人にとってはインジェラが食卓の友なのかもしれない。
特にエチオピアを旅行する日本人バックパッカーの間では、インジェラは評判が悪い。
色もそうだが、とにかく味へのクレームが半端ないのである。おそらく、パンのように見せかけて、味が少々酸っぱいということが、その原因なのではないかと思う。
我々にとってパンといえば、少々甘めのものを想像する。しかし、そこに酸っぱいパンがやってくると、脳が「ぎえっ!?」とふんぞりかえってしまう。そのなれない味に、「まずい」と結論づけてしまうのだろう。
甘いパスタ、「バラリート」と同様のケースである。
インジェラを超えるツワモノ現る!甘いパスタ、「バラリート」の衝撃
一方で、ドバイで知り合ったインド人やカリブの人は、「インジェラっておいしいわよ」と真顔でのたまう。基本の食生活が違えば、インジェラに対する態度も違うのではないか・・・と思ったものである。
インジェラを使って創作料理を作り出してみる
一向にクトゥフォに話が進まない。自分でも書いていて、じれてきた。
私が行ったエチオピア料理屋で出されたクトゥフォは、ピリ辛だった。生肉感をスパイスで消す作戦は、クッベナーイエと同じである。
クトゥフォとアイブ
そして、クトゥフォの横にちょこんと据えられたアイブは、酸っぱい。チーズなのだが、コクやまろやかさはない。
クトゥフォだけだったら、日本の居酒屋にも進出できそうなレベルなのだが、インジェラとチーズという酸味のお供がそれを阻む。
こうなったらとことん酸味を食べてやる。ということで、編み出したのがインジェラの生肉サンド。決して、食べ物で遊んでいるわけではない。新たなる食べ物の創造行為である。
チーズバーガーと同じ要領で
しかし、酸味にはどうにも勝てん・・・次は酸っぱくないエチオピア料理を食べたいものである、と自作のインジェラサンドを食べながら思う。