謙虚であることは美徳。そして謙虚は日本人の専売特許であると思っている人は多いのではないだろうか。
世界中どこをみても、謙虚であることを美徳に思い、それを実践している人は日本人だけじゃないだろうか。と私は思っていたのだが、どうやらそうでもないということに最近気がついた。
こいつら、もしかして日本人よりも謙虚なんじゃね?
それがイスラム教の人々である。
イスラム教徒のシリア人部下と話していた時のこと。シリア人なので仮にSとしよう。
S:「いや〜、こんな人に恵まれた職場で働けて、マジでアッラー(神)に感謝だわ」
私:「ちょっと待て!面接をして採用をしたのは私でしょう。そこは私に感謝するのが筋ってもんじゃないの?」
S:「何言ってんのさ〜イスラームではな、どんなこともアッラーの計らいによるもんなんだぜ★」
私:「ふ〜ん、じゃあSが昇進しても、それはSの実力や周りの評価の”おかげ”ではなく、アッラーのおかげになるわけ?」
S:「そゆこと★」
今ある仕事は自分の実力や周りのおかげではなく、アッラー(神)のおかげ・・・この発想にひどく動揺したものである。
考えてみれば、日本人は表面上は「謙遜」するが、腹の底では「本当はオレの実力だかんね」みたいなことを思っているのではないだろうか。口には出さないが、腹ではやっぱり自慢するのである。
しかし、神を絶対とし、人間なんぞしょせん神の創造物という世界観で生きている人々は、この謙虚レベルが圧倒的に違うのである。「いやあ、もう人間なんてたいしたもんじゃないですよ。すごいのは神ですから」といった具合だ。
イスラム教徒たちの謙虚ぶりは徹底している。
「元気?」とアラビア語であいさつをすれば、「アルハムドゥリッラー(神さまのおかげでやんす)」と返ってくる。今、元気でやっているのも神のおかげである。
決して毎日運動を欠かさず、健康に気を使った食事を取り入れている、己の努力の成果ではないのだ。
「とんねるずのみなさんのおかげでした」も、イスラーム世界では「とんねるずのアッラーのおかげでした」になるのだろう。このように常々、「神さまのおかげでした」と口にすることで、人間ごときが、つけあがるのを防止しているのだ。
さらに、イスラム教徒の人は、相手に親切にしても「ありがとう」を求めない。日本人は口には出さないものの、何かをしたらどこかで礼を期待してしまう。親切にしたのに礼がないと、失礼なやつだなと少々気分を害する。
けれども、イスラム教徒の人々は、イスラームの教えに則って親切にしたり、食べ物を分け与えたわけであって、相手に感謝されるためではない。
その姿は、「礼はいらぬ!己の正義のためにやったことだ」と言わんばかりでかっこいい。
むしろ、ひどく相手に感謝されること嫌がる人もいる。感謝されることで、「神と同じく崇拝される対象」になることを嫌うのだ。
崇拝されるべきは神のみ。つまらぬ人間がそんな神と同じく崇拝されとは恐れ多い、ということなのだろう。
たまたまモスクであったサウジ人女性がこんなことを言っていた。彼女は、イスラム教徒の聖地メッカの近くに住んでいる。「巡礼者がわっとよってきて、なんかありがたそうにこっちに感謝してくるのよ〜まあ〜たまったもんじゃないわ」
巡礼者からすれば、聖地メッカにいる人にでさえもご利益を感じてしまうのだろう。
いやはや。イスラム教徒たちはこれらを「謙虚」とはいわない。けれども、「謙虚」を美徳としている日本人からすれば、その謙虚ぶりはたまげたものだ。世界にこんな謙虚な人々がいたとは。
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