海外で”日本好き”な外国人と遭遇した結果

海外で日本人をやっていると、ただそこに存在するだけでなぜか「日本が好き!」という人々が集まってくる。渋谷のハチ公銅像にでもなった気分である。

彼らが「日本!かっこいい!」といった後には、日本への思いを熱く語り始める。日本ってここがいいよね、日本食のあれが好きなんだ、などといった類の話である。

ニッポンが好き!というプレッシャー

まあ、簡単に流しても良いのだが、単発の出会いではなく、それが長い付き合いになりそうになると、一種のプレッシャーを感じる。

彼・彼女が「好きな日本人」から自分は逸脱していないだろうか、というものである。彼らの中には、多くの日本人に接触したことがない人もいる。そんな中で、日本について熱く語るところ、彼らの夢をぶち壊すような言動を自分はしていないだろうか、と心配になるのである。

私は彼らがいかに日本について熱く語ろうとも、だいたい「へえ〜、そいつはありがてえ」と淡々とかえすぐらいである。「え〜!そうなの!?マンモスうれぴー」などと嬉々することはできない。とりあえず下手な愛想笑いぐらいはできるが。

むしろ、彼らが熱く語るとき「アンタ、日本のダークサイドも見るべきだよ」などと、喉まで出かかるのだが、それでは日本好きっ子の夢をぶち壊す最低な人間になることぐらいは自覚している。なので、それをすんでのところで、ひっこめる。

そんなわけで、ひどく気を使ってしまうのだ。そんな気遣いが最も日本人らしいとも言えるかもしれないが。

アニメ口調で話しかけられる

通行人であれば、単にだんまりを決め込めばいいのだが、やっかいなのは、あやしくない日常生活で出会う、素性の知れた人々である。

日本語を文章で言えるツワモノが現れたか!と思いきや、思いっきりアニメ口調で話し始める人である。この場合、彼を責めることなど一切合切できない。指摘すべきは、なぜアニメのキャラは、現実離れした口調で話すのか、という点である。

私は、テレビで流れるドラマについてもそんな風に感じている。現実を描いたドラマなのに、なぜ俳優たちはあんな世離れした口調で話すのだろうと。

そんなことを考えながら、「そんなのアニメのキャラしか言わないよ。現実で使えないし」なんてことは、言えず悶々とするのであった。

いらぬ「美人のモテ」の疑似体験

一番やっかいなのが、この手の連中である。日本好きと見せかけておいて、少なからず下心のある連中も紛れ込んでくる。というか大概がそれにちがいない。これは結構対処に困るし、真意を探れば己が悲しくなるというオチしかない。

どうにも日本好きが高じて、とにかく日本人を見ると恋心を抱く人である。とりわけ男性陣に多い。日本人女を見たら好きになる、声をかける。これではもはやパブロフの犬である。

熱心に日本について語り始めたかと思いきや、そっちの話に移るともはや残念無念としか言えない。「こいつ、日本人だったら誰でもいいんだな」と。さらに下衆な発想をすれば、日本の居住権が欲しいのかな、とかまで一応考える。

「日本の居住権欲しいなら、他の人をあたって」という言葉が無情にも出かかるが、それでは人間失格になるので、だんまりを決め込む。

しかし、この状況。考えてみれば、美人の悩みじゃないか。

「美人だって悩みはあるんですよ。自分に言い寄ってくる男は、みんなアタシの顔が好きなのであって、中身を見ていないんじゃないかって」

誰もが一度は聞いたことがあるのではないか。

今の私に置き換えるとこんな感じである。

「自分に言い寄ってくる男は、みんな日本人のアタシが好きなのであって、アタシの中身をみていないんじゃないかって」

これぞ「美人のモテ」疑似体験。整形いらずで、美人を体験することができるとは。なかなか興味深い体験である。

しかし、とある男性はこう言った。

「俺にとって、相手の顔なんぞどうでもいい。ブサイクでも歓迎だ。ただな、俺にとって重要なのは心だ。そいつが本当にいいやつか。それだけが重要なのだ」

その理論のもと、どうやら選ばれているような私。どっちに転んでも、納得はいかなかった。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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