なぜ日本の会社では人を褒めないのか

大人になって人前で褒められることは、あまりないだろう。子どもの頃は、歩いたり、「あうー」とかいうだけで、拍手喝采で褒められるというのに。

そう。日本社会では大人になるにつれ、褒められることが少なくなっていく。

一方で、ドバイなんかだと、大人でもよく褒められる。仕事でいい結果を出したら、周りの同僚たちが「やるやん」などと、褒め褒めシャワーを浴びせてくれる。

そこに上司だから、部下だからという関係性はない。だれもがフラットに褒め合う文化がそこにはある。下手をすれば、ケーキや風船まで持ち出して、ミニパーティーすら始まる。

日本人からすれば、仕事なんだから出来て当たり前じゃん?何をそんな大げさに・・・とすら思うこともある。むしろ日本でそんなことをやれば、「なんであいつだけ・・・」、「そんな大したことしてないじゃん」、と言ったような反感や妬みすら浮上しかねない。

思い返せば日本で働いていた時は(数年ほどだが)、ほとんど褒められた記憶がない。一方で、”表彰”という形でシステム的に褒める制度はあった。すごい結果を残せば、社内の朝会や全体会議の際に、公式に褒められるというシステムである。そこで発生するのは、”個人”による褒めの言葉ではなく、役職の高い人間の”公の言葉”と、モブと化した平社員による拍手である。

褒め褒めシャワーは仕事以外にもおよぶ。イギリスやアメリカの人は、「それいいやん★」と、やたらと身につけているものを褒める。移民が多い国ゆえか、会話の円滑剤になるような表現を多用するのだろう。

ちなみに、イスラーム圏の人々は、邪視という考え方があるので、そう言った表現をあまり使わない。むしろ「神のご加護があったんやな」という、やんわりとした表現を使う。

日本で褒め褒めシャワーを実践するのは難しい。なにせ、おじさんが若手社員を褒めたりしたら、ハラスメントで訴えられるという時代である。年齢や肩書きが重視される日本社会では、世代間を超えるフラットなコミュニケーションが難しい。

そもそも、いつから褒められなくなったのだろう。思えば小学校高学年ぐらいからのような気がする。私が通っていた中学では、厳しさこそが愛であり正義みたいなスローガンを掲げる”熱血”先生が、そこそこいた。卒業時には、「あの時の先生の厳しい指導が、今につながってます!」みたいな涙の会話が、その辺でなされていた。

今だから思うが、大人でさえ褒められた嬉しいし、やる気スイッチが出るのだ。思春期の青年諸君は言わずもがなである。海外のゆるさと褒め褒め文化を知ると、日本の部活における熱血指導は、ちょっとやり過ぎなんじゃ・・・と思うことがしばしばある。

褒めるという文化に出会った時、はたと思った。日本では、どうやって褒めるんだろう・・・

英語では褒める表現が各種そろっている。しかし、日本の会社でそれをやろうと思ったら、どんな言葉を使ったら良いのだろう。それに日本語で褒めるのは気恥ずかしい。そう、褒め慣れていないのだ。褒め文化の欠落である。

こうした比較を書くと、海外持ち上げ論と受け止められるかもしれない。そうではないのだ。むしろ重要なのは、大人が褒め、褒められる世界も存在するということ。そして、どちらの世界で生きるかを選択ができる、ということなのだ。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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