日本人墓石の上に住む人々。韓国釜山の碑石文化村を訪ねて

韓国の釜山に、日本人の墓石を使って建てられた家々が立つ村があるという。墓石の上に住むという、衝撃のコンセプトとは一体・・・

目的の場所は、「峨嵋洞(アミドン)碑石文化村」もしくは「碑石マウル」と呼ばれている。韓国語でマウルは町を意味する。簡単に言えば、墓石の街ということになるだろう。

最寄駅のトソン駅から、急な坂道を登った山間部にその町はある。チャガルチ市場やプサンタワーなど観光客が集まるスポットからそう遠くはない。

峨嵋洞からの釜山の街の眺め
碑石マウルからみた釜山の町

峨嵋洞碑石文化村生行き方
碑石マウル近くの最寄りのバス停

サンサン教会
目印となる教会。教会の向かい側に碑石マウルがある。

「墓」というぐらいだから、アングラスポットかと思いきや、思いの外そのたたずまいは堂々としている。「ここで墓石が見れるよ~」というポップな案内板を進むと、そこは狭い民家の裏路地に入る。

峨嵋洞碑石文化村案内板
碑石マウルの案内図

墓石をモチーフにしたゆるキャラも登場

げげっ

普通の住宅地じゃあん

そうなのだ。一応、観光スポットのツラをしているのだが、そこは普通に今も住民たちが住む住宅街なのである。住宅街といっても、ここタルドンネと呼ばれる貧民街である。タルドンネは、月の町という意味で、月に届きそうな高台に位置していることから、そう呼ばれている。なんともロマンチックな呼び名である。

ローマの七丘にあやかって丘を好み、権力の象徴のようなモスクや宮殿を建てたオスマン帝国とは、真逆だなあと思いつつ、先を進む。

案内板より奥へ進むと、住宅地の狭い路地に入る。所々に「静かに観光してください」という注意書きが貼られている。


民家を改造して、昔の人々の暮らしを展示している。墓石の街というより、当時の歴史を伝える場所としての意味合いもあるらしい。

壁面に描かれた矢印通りに進んでいくと、様々な墓石がひょっこりと姿を現す。

峨嵋洞にある日本人の墓石
「明治42年….没」と墓石にかかれているのがはっきりと読み取れる。以前は壁面に墓地の様子が描かれていたようだが、塗りつぶされている模様。

壁や階段ならまだしも、植木鉢の下敷きになっている墓石もある。どうみてもそこに置く必要はないだろ・・・日本人としては、肝が冷える光景である。

峨嵋洞にある日本人の墓石
墓石に”安川”とかかれているのがわかる

石碑マウルの中でも強者だったのが、こちら。

敷居に使われている墓石

お気づきだろうか・・・

なんと家のドアの敷居となっている墓石。墓石が半分コンクリートの地面に埋もれているのが、生々しい。一体、この家の住民は、どんな思いで玄関をまたいでいるのだろう。

単なる墓石といえども、墓に何かをすることは罰当たりな行為だという信仰を持つ日本人からすれば、恐ろしげな光景である。

しかし、時代を考えれば仕方がないことだったのだろう。ここには日帝占領期時代に、日本人墓地が作られた。資料によれば、墓地の建設が始まったのは、1906年の明治のことである。墓地の数は正確にはわからないが、おそらく3,000基ほどあったのではないかと言われている。

そして1945年の終戦を迎えると、日本人墓地は放棄された。韓国にとっては、独立の年である。1950年から朝鮮戦争が始まると国内から避難民が押し寄せ、墓地から住宅地へと変わっていた。戦時中で建築資材も不足していたことから、仕方がなくそこにあった墓石を資材として使って生まれたのが、今の碑石マウルである。

一通り墓石探しを終え、次に向かったのが大成寺である。碑石マウルを左手に坂を登っていく。徒歩5分ほどの場所にある。

大成寺
大成寺

この寺の成り立ちも興味深い。寺の説明書きによると、墓石村の住民の身内に不幸が続いていており、実際に家を見て欲しいという村人の家を訪ねると、敷居に墓石が使われていたという。

ひえっ

やっぱり墓を再利用したから、ばちがあったのだろうか・・・

そうした経緯を経てこの寺では、行き場を失った日本人の魂を鎮めるため、供養を行っているのだという。

しかし、この世に本当にばちが当たるとか、呪いとかいった類のものがあるのだろうか。にわかには信じがたい。

石碑マウルの住民たちに聞き取り調査を行ったという、韓国海洋大学のキム・ジョンハ氏の調査によると、住民による幽霊目撃談が報告されている。目撃談によると、着物や白い服を着た幽霊が出たとか、鬼火が見えたとかいうものである。

先祖崇拝や自然などやたらと色んなものを信仰する日本人からすれば、死者が祀られた墓は神聖なもので、墓石などへの破壊行為は、罰当たりだと考える人が多い。

とすれば、韓国の人々もまた、日本人のような信仰を持っているのだろうか。墓石に対する後ろめたさが、幽霊のようなものを見させたのではないか、というのが私の仮説である。

ちなみに、韓国ではこの村を舞台とした할아버지 집에는 퀴신이 다(ハラボジの家には幽霊が住んでいる)』という絵本が出版されている。アミドンに住む老人と日本人の幽霊が登場し、この村の歴史について語るという話である。

一方で、エジプトには死者の街というものが存在する。そこにもまた、墓石と暮らす人々がいる。墓石と暮らすというよりも、墓地の中に住居を作って占拠しているという状態なのだが。そこでは、死者を祀る墓は、恐怖というよりも、むしろ神聖な墓がそばにいることで、ご利益があると人々は考えている。もちろんイスラームにも幽霊というコンセプトはあるが、死者の霊というよりも、アラジンに出てくるジーニーみたいな妖精だと人々は捉えている。

というわけで、イスラームを信仰する人々にとって、日本人が言うところの幽霊は存在しないと思っていた。しかし、パキスタン人の友人に聞けば、「家に女の霊が出るから、引っ越したわー。イスラマバードはああいう物件が多いのよね」などという。うーん。やっぱり見える人には見えるのだろうか。ただパキスタン人の幽霊は、あんまり怖くなさそうである。

釜山の墓石村に興味を持ったのも、日本人の墓石が使われている!というよりも、墓と暮らすってどういうことなのだろう、という理由が大きかった。

アミドンから、坂道をさらに10分ほど登ると有名な観光地、甘川文化村がある。ここもかつては貧民街として知られていた場所である。しかし今では、韓国のマチュピチュとも呼ばれ、カラフルな建物が立ち並び、映えスポットとして観光客で賑わう。

パステルカラーとアートを吹き込むだけで、あら不思議!さえない場所が素敵な観光スポットに早変わり。こうしたメソッドは、世界の観光地でもよく使われている手法である。

カラフルな色合いと観光客の賑わいで、甘川文化村は、みるからに眩しい観光地である。ここが光だとすれば、日本人の墓石を抱いてひっそりとたたずむアミドンは、闇である。たった数百メートルしか離れていないのに、この差はなんだ。

個人的には、あの碑石文化村がパステルカラーに飲み込まれず、ひっそりと歴史を伝え続けることを願ってやまない。

峨嵋洞碑石文化村へのアクセス

地下鉄の土城(トソン)駅の8番出口から、徒歩15分。地獄のような坂道が続くので、体力をセーブしたい人は、マイクロバスに乗車することをお勧めする。

目印はサンサン教会。教会の向かい側に、碑石文化村の案内板がある。案内板から、矢印に沿って住宅街を歩くと、様々な墓石に出会う。近辺を合わせても30分~1時間ほどで見て回れる。

大成寺は、碑石文化村から徒歩10分程度。甘川文化村方面に道を登っていくと、右手に大通りがある。そこを右に曲がってすぐの場所にある。入り口は目立たないので、見落とさないように注意したい。

峨嵋洞碑石文化村

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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