エジプトの首都カイロに、「死者の街」と呼ばれる場所がある。死者が眠る墓地だというのに、そこでは現世を生きる人々の”生”が営まれている。そこはまさしく死者と生者の共演舞台である。
死者の街について調べるほど、奇妙な街であることが見えてきた。なにせ家のキッチンの横に墓石があったり、家の周りを墓がぐるりと囲んでいたり。その不思議な光景は、ホラー漫画家、伊藤潤二の「墓標の町」さながらである。
「墓標の町」では、道路や家の中など至る所に墓標が立っている。その町では不思議なことに、人が死ぬとその場で、遺体が墓標と化すからだ・・・といった漫画のような光景が、カイロの一角にもあるらしい。
ところが厄介なことに、死者の街はひどく治安が悪いらしい。ならばツアーで行くまでじゃ!とツアーにも参加してみたが、案内されたのは観光的な建築物だけで、肝心の墓石の街にはたどり着いていない。
それもそうだ。なにせこの死者の街は広い上に、北墓地と南墓地の2箇所に分かれている。どちらも南北に広く伸びており、数キロメートル以上はある。まさしく街なのだ。
北墓地。地面よりも低い位置に広がっており、若干スラム感が漂う
ジモティーたちに聞いても、「あそこに一人で行くのはまじヤバイから。やめといた方がええで」という。墓地の住民は、まともな家に住む金がない、という経済的な理由で住んでいる人が大半であるから、治安が良いことはないだろう。
ジモティーに頼んでも誰も一緒に行ってくれないので、人通りが多い道路に面した場所をピックアップし、一人で行くことにした。
墓地だというのに、住人がいるというだけでなぜか不法侵入しているような気になってくる(といっても歩いているのは公道)。後から建てられたであろう住人たちの家が、「ここは住宅街ですよ〜」感を放っているのだ。メインのお墓は、添え物程度のオブジェと化している。
今回訪れた南墓地。人気はほとんどない。
墓地内にある公道?のようなものを進んでいく。もはや住宅街である。
ドアの向こうには、お墓が点在している。庭は墓だらけなのだろう。
墓地なのか住宅街なのかもはやわからない。不思議な光景が広がっている。
窓からのぞくと、部屋の中にお墓が鎮座していた。
なぜこうも平然としているのだろう。生者と死者の距離が近すぎる。けれども、どこか敬意を持って一定の距離を置いていることはわかる。
死者の街は、7世紀ごろにその姿を現し、今では1万以上の墓石をを抱える巨大な死者の街となっている。その中にはエジプトやイスラーム史の重要人物なども含まれており、単なる集合墓地というより、エジプトの歴史の集合体である。
興味深いのは12~15世紀にかけては、この墓地は行楽地として賑わっていたという。イスラーム聖者が多く眠るということもあってか、人々は聖者のご利益にあずかろうと墓地へ大挙して押し寄せた。日本人が神社で願掛けをするのと同じシステムである。つい最近までは、エジプトでは家族ぐるみで墓地へピクニックへ行く人もいたという。
墓地でピクニック・・・
歌舞伎町でピクニックと同じぐらい、違和感のある組み合わせである。
しかし、よく考えればヴィクトリア朝時代にも、墓地ピクニックはあったそうだし、沖縄にも清明祭という家族が集まり墓前で食事をする文化がある。こうしてみると、「墓地を囲む会」というのは時代を超えて、世界各地で見られる現象だということがわかる。となれば、墓地に住むというコンセプトは、それほど異常なことではない。
なにせエジプトは、ピラミッドの国でもある。今でもエジプト人は、エジプト人やイスラーム教徒というよりも、ファラオの国の人間じゃ!という点に誇りを持っている人もいる。
古代からそんな巨大墓地を抱えてきたエジプトでは、死者が身近にいるのが普通のことなのかもしれない。先のアイユーブ・マムルーク朝時代には、スフィンクスに供え物を持って参拝し、お願いごとをする人々もいたという。
死者と暮らす街。そのコンセプトは衝撃的に見えて、意外と凡庸なものなのかもしれない。
参考文献:大稔哲也, 死者の街と「エジプト」意識, 信仰の地域史7