異国へ行くと、たまにお墓によることがある。
宗教や国によって死者の埋葬方法はさまざまで、そうした違いをみることができるからだ。
ロンドンには、一風変わった墓地があるという。それが、ハイゲート墓地だ。ロンドンの中心部から、電車で30分ほどいったところにある。
ゴージャスすぎる墓の謎
佐藤優氏の「紳士協定: 私のイギリス物語」という本で、マルクスの墓がロンドンのハイゲート墓地にあるということを知った。
佐藤氏は、かつて外交官としてソ連の大使館に7年ほど勤務していた。
当時のソ連では、ロシア語を外国人に教えることはスパイ育成行為とみなされていたので、彼は仕方がなくイギリスの陸軍学校でロシア語を学ぶことにしたのである。
そんなイギリスでの出来事をまとめたのが、先の本である。
そんなわけで「マルクスの墓参りに行ってみよう!」と思っていたのだが、調べてみると何やら墓地の様子がおかしいのである。
これお墓・・・?
むしろ歴史的な建築物と呼んだ方がふさわしいような、墓にしてはいやにゴージャスすぎるのである。
これは一体・・・
そんなわけで、ゴージャスすぎる謎の墓の正体を知るため、ハイゲート墓地に向かった。
そして、ロンドンの墓と中東という意外なつながりを知ることになる。
カール・マルクスの墓参りへ
ハイゲート墓地は、西側、東側に分かれており、東側はツアー参加者しか入れない。マルクスの墓がある西側は、入場料の3ポンドを払えば、誰でも出入り自由だ。
マルクスの巨大な墓。2メートル近くはある。時々地元のヤンキーたちに、スプレーなどで落書きされる。
マルクスの墓には、2つの言葉が刻まれている。
「万国の労働者よ、団結せよ」
「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」
大学生の頃、右翼の人々と三島由紀夫の墓参りに行ったのだが、それと比べるとマルクスの墓はなんともゴージャスである。
マルクスのオリジナルの墓。先ほどのお墓は1954年に建てられた記念の墓
墓地には比較的、新しい墓もあるが、そのほとんどは古い墓である。もはや参る人もおらず、自然の中に墓石が埋もれている状態だ。
墓地というよりも自然公園
ゴージャスすぎる墓の正体
ハイゲート墓地が作られたのは、1839年。時代はまさしく産業革命の真っ最中である。産業が成長する一方で、当時の市民の暮らしは、ひどいものだった。
今のロンドンからは想像もつかないが、街中の空気は汚染され、コレラが蔓延し、とにかく人々が次々と死んでいく状態だった。
とにかく死者が街にあふれ、埋葬が間に合わん!ということで、ロンドンの郊外にあらたに7つの墓地を作る計画が始まったのである。ハイゲート墓地はそのうちの1つであった。
墓地には、木々が鬱蒼と生えている。しかし、これは自然に生えてきたものではなく、墓地のブランディングのために植えられたのだという。
当時、墓地を運営していたのは、民間企業であった。いかにして魅力的なお墓環境を作り、人々が死後にここで眠りたい!と思わせるかが、ポイントだったのである。
緑は豊かな天国を連想させる色でもある
墓なのかアートなのかわからなくなってくる・・・
ハイゲート墓地が作れらたのは、産業革命時代でもあったが、またヴィクトリア朝の時代でもあった。
イギリス帝国の絶頂期ともいわれるヴィクトリア朝では、華美な文化が花開いた。そう、とにかくなんでもゴージャスにしたがるのである。
それが墓にも如実に表れていた。墓が無駄にゴージャスだったのは、このせいだったのである。
墓で優雅にピクニックをしたヴィクトリア朝の人々
ヴィクトリア朝の人々は、とにかく見栄っ張りで、自慢したがりだったらしい。それは当人だけではなく、死者を見送った残された人々もそうであった。
ハイゲート墓地で、もっとも巨大とされるこちらの墓。
墓というか小屋のような作りである。中へ入ると棺が並んでおり、天気のいい日には、小屋の屋上でピクニックをしたのでは?と言われている。
現代の我々とヴィクトリア朝の人々の墓に対する意識は、ずいぶん違うらしい。
ヴィクトリア朝の墓も多いが、近年に作られた墓もある。そのうちの1つが、元ロシアのスパイで、2006年にロンドンで毒殺されたというアレクサンドル・リトヴィネンコ氏である。
リトヴィネンコ氏の墓
墓の概念をくつがえす墓
ここからがハイゲート墓地の目玉である。
それが、「エジプト街」と「レバノン回廊」と呼ばれる一角だ。
この場所に限っては、我々が考える墓という概念が通用しない。墓であって墓でないのである。
古代エジプトをイメージした「エジプト街」
え、これお墓なん・・・?
レバノン回廊。回廊の中心部には、レバノンの国旗にもなっているレバノン杉が植えられている
なぜロンドンの墓にいきなりエジプトやレバノンが登場するのだろう。
当時のヨーロッパには、中東ブームが巻き起こっていた。
日本で「イタリアンとかフレンチがおしゃれ☆」とかいう感覚同様、その頃のヨーロッパでは「エジプトとか、めっちゃおしゃれやん☆」という空気が存在した。
そのブームの先駆けを作ったのが、ナポレオンである。そう、あの馬の絵でおなじみのナポレオンである。
ナポレオン率いるフランス軍が、1798年から1801年にかけてエジプトへ遠征に行った。同時に、ナポレオンは学者たちを引き連れ、エジプトをもっと知ろうプロジェクトを展開していたのである。
その成果として、エジプトの歴史や美術、文化などを調査結果をまとめたエジプト本「エジプト誌」が発行されたのである。
この調査では、ロゼッタストーン(言語学習サービスの方ではない)が発見され、古代文字を読み解くてがかりとして、歴史的にも意味あるものになった。
ドバイの博物館に展示されていた「エジプト誌」。第1、2部とあわせて60巻ほどある。
これをきっかけにヨーロッパでは、「ぎょへ!?エジプトかっけー」というエジプトブームが到来。その熱狂ぶりは「エジプト熱」とも呼ばれたほどだ。
これにより建築の分野にも、古代エジプトにインスパイアされた建築様式が誕生したのである。
ここで紹介したのは一部にすぎない。そのほかにも、古めかしい棺を見学したり、イギリスの歴史的有名人物にまつわるストーリーなどもツアーでは紹介された。
墓自体は何も語らない。しかし、ツアーガイドとめぐれば、草木に埋もれた墓石は、たちまちイギリスの膨大な歴史の一部になる。
2時間近くにおよぶ墓地ツアーは、もりだくさんであった。その上、ツアー料金はたったの12イギリスポンド(約1,700円)という驚愕の値段。これらはすべて、墓地の管理費にあてられるのだという。
相当な知識量とともに、墓地について熱く語ってくれたボランティアガイドにあっぱれである。
歴史や文化に関する良質な知識に、良心的な価格でアクセスできる素晴らしさ。それは、国民が歴史や知を尊ぶ国ならではなのだろう。
ちょっとした数時間の観光ツアー(特に質はよろしくない)でも、1~3万円はするドバイからやってきた人間にとっては、感心するばかりだった。