幸せになる人間と不幸せになる人間の違い

上海の友達を訪れた時。私が泊まるホテルに友人がやってきた。かと思うと、開口一番に「トイレを貸してくれ」である。そして、トイレから出てきたと思ったら「トイレが壊れたから入らないで。今ホテルの清掃を呼ぶから」などという。

一体この数分間で何が起きたのか

彼女曰く、トイレで大をしたのだが、換気扇が壊れているので、にほいが充満しているのだという。そうこうしているうちに、ホテルの清掃員たちが数名やってきて、大規模なトイレ修復工事が始まる。

「人の部屋で、よく大ができるね?恥ずかしいとか思わないの?」

「だって我慢するのは体に良くないし、何より自分が快適なことが一番じゃん?」

彼女は何よりも自分を大事にしていた。それは、自分勝手と言うことではない。他人からの目を気にすることなく、自分ファーストで自分を大切に扱うことを意味していた。

かたや私はといえば、海外暮らしが長いといえど、しょせんは純度100%の日本人なので、周りの目を気にしたり、気を使うことが結構ある。人に気を遣って自分を押し殺したり、恥ずかしいなどと言って、自分の意図にそぐわない行動をしばしばすることがある。

「人の目が気になるって?全く人生に影響しない周りの目を気にしても無駄じゃん?」

なぜだからわからないが、私は時々道ゆく人が、自分のことをどう見ているのか強烈に意識してしまうことがある。その時に、彼女が放ったのがこの言葉である。当然のことながら、町ですれ違う人のほぼ100%と、人生で関わることはないのだ。それに対して、気にするのは確かに、意味がない。

彼女はまったく化粧をしない。オシャレもしない。中国ではバッチリ化粧する派と、まったくしない派の2代派閥があるようで、彼女は後者に属していた。

「化粧するぐらいだったら、他のことに時間を回したいんだよね」

彼女には、化粧をして美しく見られたい、といった気持ちは微塵もない。ただ自分のやりたいこと、やるべきことにひたすら集中している。だから、私が、ベルリンでネットワークを広げるためにいろんな人間にあっているなどというと、「誰でも彼でも話せばいいってもんじゃないよ。それが本当に必要な場合を除いてね」と言った。

確かに彼女は自分で「自分は話す人を選んでいる」と言っていた。自分に合わない、自分にとってためにならない人間関係に、時間を使わない。けれども、私は「どんなダメ人間からでも学びがある」と言うポリシーの人間なので、よほど害がなければ、とりあえずは付き合うことにはしている。忙しい人間であれば、確かに彼女の戦略の方が有効なのかもしれない。

ベルリンの冬と寒さに、頭を抱える私。友人はフィンランドでの留学経験があった。彼女にしてみれば、フィンランドの冬が辛いと思ったことは特になく、冬はスキーをしたり、サウナに行ったり、冬ならではのアクティビティを堪能していたとのことだった。思えば、彼女はイスラエル留学時代から、何かにつけていつも楽しそうにしていた。

かたや私はといえば、どこへ行っても落ち込んだり、不満を言ったり、100%その場所を楽しめず、不幸になることがしばしばあった。だから、新しい場所へ行けばもっと満足できるはず、と言う謎の信仰にかられ、住む国を数年おきに変えている。

どこにいても、不平不満を言い、不幸になる自分

どこにいても、楽しそうで、幸せそうな彼女

何が違うのか。

それは、性格が内向きとか社交的という要因はありつつも、それがすべてではないように思えた。彼女は、どこにいても今だからできること、その場所だからできること集中していた。そんな彼女を見ていて、私はベルリンで何をすべきかが見えてきたような気がする。