多くの人は人生で一度は考えたことがあるだろう。「自分にとって生きる意味ってなんだろう」と。
辛い現実や、先行きが見えなくなった時、こうした人生の意味を立ち返ることがある。かくして、私も四半世紀ほど生きていて、何度か自問自答したが、答えは結局でなかった。
しかし、突如としてこの問いに対する答えを見つけたのである。
それが、「そもそも、生きる意味なんて存在しないじゃね?」ということである。これをいっちゃあおしまいという気もするが、まあ聞いていただきたい。
フォロワー数が多くても意味ないよ?
きっかけはとある書生の言葉だ。書生はイスラーム教徒である。そんな彼が言い放った一言。「いいか。いくらインスタやツイッターのフォロワー数が多くても全然意味はないぞ」。
「は?」となった方に解説しよう。
そもそもイスラーム教においては、あまり現世は重視されない。重要なのは来世なのである。じゃあ、現生では何をするかというと、つとめて清く正しいイスラーム教徒目指して、善行を積むことである。
彼らの世界では、ツイッターやインスタのフォロワー数がいかに多くとも、来世に影響がでることはない。よって、世間的な名誉や地位というのは、どうでもよいのである。彼らにとって重要なのは、イスラーム教徒としての義務遂行である。
現世を必死に生きていると、ささいなことで他人と比べたり、ちっぽけな数字を気にしがちだ。ソーシャルメディア上でのフォロワー数だとか、友達の数だとか、年収だとか、貯金額だとか。そうした数値でもって、安心したり不幸にもなったりする。
通常であればこの手の質問には、哲学なり仏教なりが答えてくれる。しかし、イスラーム教の考え方もまた興味深いと私は思う。日本人には理解しにくい世界観ではあるが、暮らしのヒントになりそうなことが、けっこうあるのだ。
なぜ人は生きる意味を考えるのか
人が自身の生きる意味を考えるとき。大半の場合は、承認欲求や孤独が絡んでいると思う。社会や周りから必要とされない。そんな自分に生きる意味はあるのか。
こうした場合、生きる意味はつねに外部に依存することになる。孤独が消えれば、生きる意味を考える必要もない。けれども孤独が再来したら、同じ質問をすることになる。
「生きる意味」はときに、誰かに必要とされたい、自分の存在が意義あるものでありたい、という願望の表れでもあるのだ。
生きる意味は存在しない。問うべきは、どう生きたいか
あたかも多くの人々は、自分がなんらかしらの生きる意味を持って生まれてきた、という前提を持っている。だから、生きる意味を問う。
しかし、生物上の営みでいえば、物理的に生物個体として生まれただけなので、生きる意味なんて後づけである。
そもそも、生きる意味の確固たる答えなんて存在しない。多くの人々は、それが存在すると信じているからこそ、それを探し求める。もともとないものを探しても、はなからないのだから、それは徒労に終わる。だから、苦しくなる。
仮に見つけたとしても、それはたんなる仏教や哲学の崇高な言葉であり、一時的には有効かもしれないが、本当に個人に生きる意味を与えてくれるものではない。
本当の自分探しといって世界を放浪するのも同じである。日本を飛び出たところで、本当の自分は見つからない。ただ、異国情緒あふれる風景や優しい人々にふれることで、本質的な問いから意識を遠ざけるだけの作業にすぎない。
「生きる意味はない」と言ってしまうと、路頭に迷いそうな人も多くいるので、あえてこう言いたい。「生きる意味」とは、「自分がどう生きたいか」という問いであるべきだ、と。
「ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた」という本の中で、主人公の女性構成がこんなことをつぶやいている。
人生は無意味だから、自由にいきてやれというニーチェの言葉に感じたのは真新しさだった。
“人生には、生まれてきたことには必ず意味があるから、大切に生きようね”というような言葉は耳にしたことがあったが、無意味だからこそ、自由に生きるという発想は、いままでの私にはなかったからだ。
イスラーム教の考え方で言うと、人間というのは大した存在ではない。あくまで神がつくった造形物にしかすぎないのである。科学的に異論はあるだろうが、そういう世界観で彼らはやっているので、ここは一つ、軽く流していただきたい。
よって、彼らにとって神の造形物にしかすぎない人間が、あれこれと生きる意味を考えるなんておこがましいのだ。造形物にしかすぎない人間は、来世のためにひたすら善行を尽くす、それが彼らにとっての明確な生きる意味である。
「生きる意味」を探し続ける不毛な思考の旅はやめよう
このように日本人から見れば、ルールだらけのイスラーム教というのは、案外面白い面もある。とりあえずイスラーム教なるものを信じていれば、生活における大体の規範が与えられ、生きる意味だとか、人生の意義だとかを考える必要がない。
一方で日本人にはこうした規範が存在しない。だから、人間がいかにも自分は崇高な人間であるごとく、生きる意味などを探してしまうのである。
宗教を信じろ、というわけではない。というか信じる必要もない。あくまで、自由の享受は、規範なさの自由ゆえに、人間にとって苦悩を与えるということである。
だからこそ、その自由な罠にはまらないよう、一定の規律を各々持つ必要がある。
本当に「生きる意味」を考えるトラップから逃れようとするのならば、そんなものはねい!とキッパリとカタをつけ、自分が何をやりたいかを考え、それに向かってただ邁進するのみだ。
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。
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