パレスチナ難民→スイスで会社経営。出世した元同僚との再会

久しぶりにヒシャームから連絡があった。

このブログへの彼の貢献度ははかりしれない。彼は、常に話題とインスピレーションを与えてくれるネタの宝庫なのだった。

詳しくは以下
童貞でもええじゃないか!アラブのイケメンが童貞を守り抜く理由
婚約発表した本人を直撃。イスラーム教徒の結婚観に触れてみる

難民から経営者に

彼の生き方自体も面白い。

パレスチナ難民となった両親と共に、シリアのパレスチナ難民キャンプで青年期を過ごす。シリア内戦が起こると、今度はシリア難民としてドバイへやってきた。シリア人であれば誰でもドバイへ渡航できるわけでなく、コネやお金がないと難しいということを聞いた。この時点で、相当引きが強い人間だということがわかる。

そんなドバイで、ヒシャームと会った。

会社の休憩時間中に、「ちょっとこれ見て・・・」と神妙そうにいう。何事かと思ったら、それはニュースでよく見る、シリア内戦で崩壊した町の動画だった。

「俺の家、この近所なんだよね・・・よく、ここで飯食ってたし」

そう。火事のニュースを見ていたら、実は知り合いの家だった。それと同じシステムである。

周りは反対したが、彼はドバイで不動産を購入。その後、「俺は1年以内に結婚する!」と宣言。それから6ヶ月ほどして、大手投資銀行で働いて、信仰心が強いハイスペ嫁はんをゲット。

スイス出身の嫁はんと共に、スイスへと旅立っていったのだ。そして現在は、スイスの会社で働きつつ、ガザ地区のキッズ支援のため自分の会社も経営しているという。

パレスチナ難民からドバイ、スイスへ。とんだシンデレラボーイである。

彼がスイスへ旅立ったのは、コロナが起こる前だった。

「コロナが起こる直前にやめたのによお、会社が苦しいからって言って最後の給料もらえなかったんだぜ?」

私はコロナが発生するちょうど1ヶ月前にドバイの会社を退職した。別の同僚に聞いたところ、その会社ではコロナの影響により従業員の半分以上が解雇されたという。

もしあの会社であのまま働いていたら、私も解雇されていただろう・・・

ヒシャームもコロナ前に運良く会社を辞めていたが、大量解雇の時期と被っていたようで、会社も資金繰りに困っていたのだろう。バージュ・ハリファなんかで毎年クリスマスパーティーなんかやってる場合じゃなかったのだ。

数年を経て、お互いの立場は逆転した。

世界で最も住みにくい都市であるカラチに住む私。そして、世界で最も住みやすい都市ランキング上位のチューリッヒに住むヒシャーム。

人生というのは数奇なものである。

お互いの生活環境を一通り述べあい思ったのは、結局どこにいても少なからずの不満はある、ということだった。

スイスはさぞかしいい暮らしだと思っていたが、ヒシャームは退屈だという。

店は夜8時に閉まるし、日曜日は完全にシャットダウン。町でおしゃべりをする人も少ない。人々は平穏に暮らしているが、他国の紛争や政治状況への関心はあまり高くなく、話題に上るのは、もっぱら家族や日々の暮らし、庭の手入れなんかである。

老後の暮らしみたいだな・・・

かたやカラチ。

インフラが整備されておらず体がズタボロになる上、一人でうろつく自由や安全がない。けれども、先進国にはない世界や人間のリアルを目の当たりにするため、社会や経済について考えさせられる。辛くもあるが刺激に満ちている。

その中間があれば理想だが・・・

結局、自分にとっての理想の国なんてないんだよな。

これが2年間、いろんな国を移住対象に考えてきたり、実際にいくつかの国に住んでみてわかったことだった。どの国にも、いい面、悪い面があって、それらを受け入れつつ、生活をしていかなければならないのだ。

「ところで、さっきから車の運転してるけど、どこに向かってんの?」

「モスク。今日は金曜日だからな。車で30分かけていくんだぜ」

そうだった。

すでにパキスタンでは金曜礼拝の時間は過ぎていたが、スイスではこれからなのだ。

スイスで、モスクへ通うアラブ人。未知の世界に、見慣れた光景がある。久しぶりの会話は、不思議な気持ちを残して、途切れた。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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