世界遺産の町ストーンタウンで歴史散策。アラビアの王都を訪ねて

中東探検隊なのにタンザニア?中東じゃないじゃん?と思うかもしれない。

けれども、特に東アフリカはアラブやイスラームと深い繋がりがある。ザンジバルに来た理由は、アフリカのアラブ、そしてイスラームを探すためだ。

かつてのアラビアの王都へ

地理的にはアフリカだけれども、こちらとしてはアラブやイスラームの親戚としてみているのである。歴史的に見れば、この地がアフリカの一国になってからは100年も経っていない。むしろ、アラブ人による支配の歴史の方が長いのである。

ザンジバルの歴史変遷

 

キルワ王国 :1503年以前 ←アラブ人による支配
ポルトガル海上帝国 :1503年〜1698年
オマーン帝国 :1698年〜1856年 ←アラブ人による支配
ザンジバル・スルターン王国 :1856年〜1890年 ←アラブ人による支配
大英帝国 :1890年〜1963年 ←実質的にはアラブ人による支配
ザンジバル人民共和国 :1964年
タンザニア
:1964年〜現在

中でも特筆すべきは、ザンジバルがかつてオマーンの一部だったことだろう。アラビア半島といえば、現在はドバイやサウジアラビアの方が圧倒的に知名度が高い。一方のオマーンといえば、それほど目立たない国でもある。

けれども、かつてはソマリアのモガディシオからモザンビークのソファラあたりまでの東アフリカの海岸一帯を支配していたのがオマーンである。そう、オマーンは、野望に満ちあふれた海洋帝国だったのだ。

東アフリカの海岸一帯は、スワヒリ海岸と呼ばれ、スワヒリ文化という独自の文化を形成してきた。

簡単に言えば、スワヒリは純粋なアフリカンカルチャーではなく、アラブやインド、ポルトガル、ペルシャといった複数の文化がミックスされてできたものである。

だから、同じタンザニアであっても、内陸部のタンザニアと海岸地域のタンザニアは、ぐっと雰囲気が違う。

中でもザンジバルは、この地域を行き交った異国の人々や歴史が、まるでミルフィーユのように重なってできて今がある。その文化のミルフィーユを見るべくやってきたのが、かつてのオマーンの首都であるストーンタウンだった。

ストーンタウンの歴史スポット

文化のミルフィーユとはいえ、それはザンジバルが大国によって、支配されてきたことの歴史の積み重ねでもある。

16~17世紀はポルトガル、それ以降から19世紀後半にかけては、アラブ人の支配下にあった。ストーンタウンにある旧要塞は、その歴史をよく表している。

16世紀にポルトガルが作ったチャペルを、オマーンからやってきたアラブ人が改造して、今のような要塞になっている。19世紀初めには、刑務所や処刑場として使用された。


アラブ人が使っていた旧要塞


よくみると砦の部分は2層になっている。下の部分は、ポルトガル時代に建てられたもので、上部はアラブ人が新たに付け加えた部分だ。

旧要塞から歩いて5分ほど行くと、オマーンのスルタン(アラブの皇帝みたいなもん)が住んでいた宮殿があり、現在は博物館として公開されている。1964年のザンジバル革命で、アラブ人たちがこの地を離れるまで、宮殿として使われていた。


オマーンの王族が住んだ宮殿からの眺め

ザンジバル_パレスミュージアム内
博物館内にはヨーロッパからの調度品や贈り物などが展示されている

博物館の一角には、アラブの王女サルメの部屋がある。基本的に、王族一家の女性たちは読み書きを教えられることなく育った。

そのため、当時のアラブ人女性たちの暮らしを描いた書物は残っていない。ところが、サルメ王女の著書『Memoris of Arabian Princess from Zanzibar』は唯一の例外として、当時の様子を知る貴重な資料となっている。

ストーンタウン内には、ペルシャ様式のハンマームと呼ばれる公衆浴場もある。これも、アラブ人によって持ち込まれた。内部は廃墟のようななりなので、観光客が見ても「ふーん」としか言いようがない場所である。


公衆浴場の屋上

ただ、アフリカにイスラーム式の浴場があるんだ!という私のようなマニアにはウケるのかも知れない。中には脱衣場から、浴槽、トイレ、洗い場があり、日本の温泉浴場と同じようなスタイルをしている。入場料は1ドル。ガイドに案内してもらうこともできる。

ザンジバルドア巡り

文化のミルフィーユを象徴するものといえば、ストーンタウン名物のザンジバルドアだろう。ストーンタウンの建物には、木彫りの立派なドアがはめ込まれている。ドアには、ザンジバルのミックスカルチャーがよく現れている。


ザンジバルドア

一見するとどれも同じようなドアに見えるが、インドスタイルやアラブスタイルと微妙に違う。ドアの上部が丸みを帯びているのがインドスタイルのドア。一方で直線上になっているのは、アラブスタイルである。

ザンジバルドア
ザンジバルドアのいろいろ

ドアに近づいてみると、美しい装飾がほどこされていることがわかる。装飾は、果物や動物、植物やアラビア文字など様々だ。

ザンジバルドアの装飾
ドアの装飾。左から時計回りに、アラビア語、パイナップル、ライオン、鎖、魚のうろこ

装飾にもそれぞれ意味があり、魚のウロコや波が彫られているドアは家主が漁師であり、鎖のチェーンが掘られたドアは奴隷商人の家といったように、家主の職業を表す。ドアのサイズが大きく、装飾が多い家は、家主が非常にリッチだということを示している。

こうしたザンジバルドア巡りをしてみるのも一興。

世界に開かれた交易地

町の人々を見ても、インド人系がいたり、アラブ系の人がいたりする。ザンジバルの町では、美味しいインド料理もいくつかある。

そもそもなぜ、インド人やアラブ人たちは、この地にやってきたのか。

現代の欧米人たちのようにビーチでまったりにしにきたわけではない。彼らの目的は、もっぱら商売である。

日本が黒船襲来にびびったり、異国船を打ち払っている頃にはすでに、インド人やアラブ人はこの地へやってきて商売をしていた。

いや、ギリシャ人航海士による『エリュトラー海案内記』によれば、1世紀頃には、ザンジバルをはじめとする東アフリカの海岸は、海の交易地としてすでに開かれていたのである。

ザンジバルの街中
精巧な木製の手すりや装飾がほどこされたバルコニーは、インド建築の特徴


ストーンタウン内でもっとも色鮮やかな建物。19世紀に、島内の中でもリッチなインド人ビジネスマンが貧しい人のための診療所として作った。こちらもインドの建築様式が見られる。


ストーンタウン。規模はそんなに大きくないのに、うろついていると時間だけが過ぎていく不思議な町。

ストーンタウンには、サンゴ石で作られた1,700以上もの建物がひしめいている。ストーンタウンという響きだけで、何やら白亜の美しい町という響がしなくもない。しかし実際には、建物の多くは劣化しており、雨のせいか白いサンゴ石がどす黒く変色している。

修理をしようにも、世界遺産の町になってしまったので、使う資材にも制限がある。個人が勝手に取り壊して、立て直すということはできない。とにかく時間とお金がかかるのだ。だから、多くの住民は、そのまま放置しているのが現状だ。

異なる宗教がひしめく町

ザンジバル島民の90%以上はイスラーム教だが、ストーンタウンにはカトリック教会、スンニ派モスク、シーア派モスク、ヒンドゥー教の寺がある。おまけにどれも距離が近い。


シーア派モスク。アラビア語とスワヒリ語が書かれている。


聖ジョセフ教会


。日曜礼拝の時だけ中へ入れる。

ザンジバルインドの寺
ヒンドゥー教の寺。なぜか大量の鳩が押し寄せていた

ザンジバルドア
イスマーイール派のモスク


モスクの近くには、コーランや子ども用向けのアラビア語練習帳などが売られていた

フレディ・マーキュリーが生まれた地

日本で学生運動が広がり、世界同時革命を叫んだ若者たちが出現した1960年代。ザンジバルでも、1つの革命が起こった。

長らくアラブによる支配が続いたザンジバルだが、いつまでもアラブ人に支配されたままでたまるか!ということで、怒れるアフリカ系若者たちが動き出した。

「家族を20分以内に殺して、自殺しちまいな」

自由の戦士と名乗る若者から、アラブ人のスルタンへ送られた殺害予告である。

これを皮切りに600人以上の若者が、アラブ系やアジア系の人々を虐殺する事態に発展した。少なくとも2,000人以上(中には2万人という説も)が殺害されたと言われている。

アフリカ・アッディオ(Africa Addio)』は、当時の殺りくの様子を実際にフィルムに収めた唯一の映画である。

スルタンはイギリスへ、そして他のオマーン人もこれを機にアラビア半島のオマーンへと逃げていった。

これが1964年に起こったザンジバル革命である。

島から逃れた人の中に、今や世界中の誰もが知る未来の有名人がいた。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーである。

フレディはザンジバルで1946年に生まれた。両親はインド生まれで、ゾロアスター教徒だった。当時、インドとザンジバルはともに英国領でもあり、父親の仕事で一家はインドからザンジバルに移住していた。彼らが革命を逃れるため向かった先は、ご存じの通りイギリスである。

お土産ショップやレストランが並ぶケニヤッタ通りには、フレディ・マーキュリー博物館がある。チケット料金が10ドルだったので、入るのはあきらめてしまった。


フレディ・マーキュリー博物館の看板。近くには日本人経営の日本レストランがある。

新宿のいかがわしい店のように、入り口には赤いカーテンがかかっており、中を見ることはできない。チラッと見た感じでは、写真展ぽかった。フレディの生家も、この通りのどこかにあったという。博物館がある場所が、生家というわけではない。

クイーンの代表曲の1つでもある「ボヘミアン・ラプソディ」では、「ビスミッラ(神の名において)」というアラビア語が登場する。

ザンジバルの公用語でもある、スワヒリ語は語句の30%がアラビア語に由来している。フレディがアラブ色が強いザンジバル出身であることを考えると、何かしらの繋がりがあるように思えなくもない。

絶たれたスワヒリ探索

ここザンジバルを皮切りに、ケニアやモザンビークの海岸地域をめぐる予定だった。ザンジバルは大きな島とはいえ、スワヒリ海岸の全貌を知るには、ケニアのモンバサやマリンディには行かねばならない。

けれども、コロナウイルスの影響で、予定の変更を余儀なくされる。アフリカはまだ大丈夫っしょ♪などと思っていたら、ザンジバルでも1人目の感染者が報告された。

そして翌日には、数日以内に島内にあるすべ手の観光ホテルを閉鎖するとの通達、1週間後には外国人の島の出入りが禁止、という事態まで発展してしまう。

観光ホテルがすべて閉鎖になるというニュースが流れた翌日、ダルエスサラームへ行くフェリーチケットを買った。ザンジバルにはまだ数週間ほど滞在する予定だったが、島に閉じ込められたらかなわん!ということで、島をそそくさと脱出。

数日後には、日本へ急きょ帰国することになったのである。そのてん末は、別の記事に書いた通りだ。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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