ジッグラトを初めて見た時、圧倒されると同時に、神々しい気分になった。エジプトのピラミッドのように、素材はシンプルでありながら、それを何十万と積み重ねると壮大な建物になる。
インパクトはピラミッドのそれと変わらない。けれども、ピラミッドに比べてその認知度は圧倒的に低い。ピラミッドはエジプトに行けば簡単に見られるが、ジッグラトがあるイラクへ行くのは容易ではないからだろう。ゆえに「そんなもん、本当に存在するの?」と、人々の記憶からは消しされている。
あれだけ壮大かつ、歴史のある建物が知られないのはもったいねい。
というわけで、ここは1つジッグラトの認知度向上に貢献するため、ジッグラトがいかなるものなのか、ジッグラトの魅力についてお伝えしたい。
ジッグラトとは?
ジッグラトとは、メソポタミア(現在のイラク)を中心に、日干しレンガなどを用いて作れらた聖塔である。そのほとんどが、紀元前2,200年から500年の間に建てられたものだ。
その形はまるで生贄を捧げるような祭壇。大量のレンガが高く積まれ、何重かの層を作っている。正面には長いレンガ階段があり、それが頂上へと続く。
見た目はピラミッドにも似ている。実際、ジッグラトとピラミッドは同時期に建てられたもので、ジッグラトの形はピラミッドにインスパイアを受けたとも言われている。
ジッグラトが建てられた目的は?
ジッグラトのことは、実はよくわかっていないのが現状だ。
なにせ、当時の形をそのまま残したジッグラトは、この世に存在しないので、元々どのような形だったのか、具体的にどのような目的で使われたのかということは、はっきりしない。
けれども、シュメールやアッカドの人々が残した遺物から推察すると、当時の人々はジッグラトが神の宿る場所だと考えていたらしい。
またジッグラトが作られたのは、ウルやバビロンといったメソポタミアの国々が繁栄した場所である。古代の人々が信じる神をまつる場所に加え、「俺の権力すごいやろ」という国王の権力を象徴するものだったとも推察できる。
いずれにしろ、その神々しい形ゆえに、ジッグラトは何かしらの形で、当時の人々と神がコミュニケーションをとる場所だったのではないだろうか。
ジッグラトの構造
一応、レンガを積んだ建築物というゆるい共通点はあるものの、ジッグラトにはこれ!という決まった形があるわけではないようだ。
初期のジッグラトを見るとよく分かる。シュメール人たちがウルクで建てたのが、白色神殿である。これだけ大きな建物を建てるのに、どれだけの手間がかかったのだろうか。一説によると、1,500人が毎日10時間働き、5年がかりで完成させたという試算も出ている。
現存するウルクの白色神殿(左)と復元図(右)
白色神殿は、いわばジッグラトのプロトタイプ。ジッグラトは時を経て、より複雑で洗練された形へと、変わっていく。
ジッグラトの高さも様々で、3階建のものもあれば、5階建のものもある。その高さは50〜100メートルほどであるが、なにせ原型が残っていないので、それ以上の高さであった可能性もある。
同年代に作られたエジプトのピラミッドと大きく違うのは、ジッグラト内はレンガでぎっちりうまっていて、部屋がないことである。一方でピラミッドには墓を収める部屋があった。
現存するジッグラトどこに?
ピラミッドに似たこの摩訶不思議なジッグラト。ピラミッド見たさに、世界中の人がわんさかエジプトへ押し寄せているのだ。おそらくジッグラトを一目見たい人だって、それなりにいるだろう。
ジッグラトはイラクを中心に、おおよそ20ほどあると言われている。しかし、ジッグラト感を醸し出す現物が残っているのは、数カ所しかない。
イラン南西部にある「チョガ・ザンビール」は、現存する最大のジッグラトとして知られる。高さ102メートルで、完全なジッグラトの形を残しているわけではないが、世界遺産にも登録されている。
世界遺産に登録されているイランの「チョガ・ザンビール」
エラム王国の国王ウンタシュ・ナピリシャによって紀元前1250年に作られた。メソポタミア地域外で建てられた珍しいジッグラトである。
イラクにあるドゥル・クリガルズのジッグラトも、壮大で迫力がある。カッシート王朝時代にクリガルズ1世の命令で作られた。紀元前14世紀のことである。
ドゥル・クリガルズのジッグラト。イラクの首都バグダッドから車で1時間ほどの場所にある。
ジッグラトの階段には手すりもなく、高さもかなりある。実際に登ってみるとちょっと怖い。
シンプルだが圧巻のジッグラト
ジッグラト上部からの眺め
サダム・フセイン政権時代には、この美しいジッグラトをみようと多くの人が訪れた。古代遺跡の周りは、草木が丁寧に手入れされ、ジッグラトを見ながらお酒が楽しめるバーも存在した。現在は廃墟になっているが。
フセイン時代に作られたバー。今では廃墟と化しているが、ジッグラトを眺めながら飲む酒はさぞかしうまかったことだろう。
観光客が訪れなくなったジッグラト付近はわびしさが漂う
独裁者として知られるサダム・フセインだが、古代文明マニアだった一面も持つ。フセイン政権時には考古省の予算を大幅にアップさせ、メソポタミアに埋もれていた遺跡の発掘や修復に少なからず貢献したのである。
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世界一美しい、古代都市ウルのジッグラト
中でも現存するジッグラトの中で、保存状態が最も良好なのが、イラクのウルにあるジッグラトである。ウル第3王朝の初代国王ウル・ナンムの令で建築が始まり、息子の代になって完成した。
修復されたウルのジッグラト。現在は階段を登ることはできない。
中心部分は日干しレンガ、そしてその周りに焼成レンガが張りつけられている。サダム・フセイン政権時代に、大規模な修復が行われた。
修復するのはいいのだが、どうもフセインの修復方法は評判が悪い。原型と全然違うじゃん!とか自分の名前を彫ったレンガを遺跡に埋め込んで、考古学者たちをドン引きさせたりしている。
ウルのジッグラトも例外ではなく、素人からすれば神々しい建物だが、修復に使われた資材が適切じゃない!とする専門家もいる。
現在残っているジッグラトは3階建てだが、元々は最上部に神殿があったのではないかと言われている。
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バベルの塔のモデルとなったジッグラト
聖書に出てくる「バベルの塔」のモデルとなったジッグラトもある。それが、バビロニアで建てられた「エテメンアンキ」である。シュメール語で「天地の基礎となる建物」という意味だ。
紀元前6世紀、バビロニア黄金時代を築いたネブカドネザル2世の時代に建てられた。7階建てで高さは91メートルあったと言われている。しかし、現在は土台部分にしか残っておらず、お世辞にもジッグラト感がほぼない。
空想で描かれたバベルの塔(左)とエテメンアンキの復元図(右)
ちなみにこのジッグラトは、メソポタミア最後のジッグラトと言われている。紀元前539年にバビロニアがアケメネス朝ペルシアによって征服されて以降、ジッグラト作りは終了した。
ペルシアはジッグラトを徹底的に破壊することはしなかったものの、ジッグラト作りを自分たちの文化に取り入れ、受け継ぐこともなかったのである。
ジッグラトはメソポタミアを中心に建てられた。メソポタミアは現在のイラクである。残念ながら現在のイラクは、気軽に行けるような場所ではない。
実物が見れないおかげで、ジッグラトが本当にあるという実感を持ちにくい。けれども、メソポタミアの古代遺跡たちは、訪れるものがいなくなった今でも、密かに息づいているのだ。