平安の都バグダッド。イラク首都の知られざる繁栄の歴史

もはや「キケン近寄るな」というイメージしかないイラクの首都バグダッド。2019年10月に始まった反政府デモは、おさまるどころか悪化の一途をたどっている。

こんな状況からは、想像しがたいが、かつてはバグダッドにも、「平安の都」と呼ばれた黄金期があった。

平安の都バグダッド

バグダッドが大きく栄えたのは、8世紀、アッバース朝の首都になってからのことである。当時、バグダッドは「平安の都」とも呼ばれた。

日本の同時代でいえば「平城京」、やや遅れて「平安京」が登場する。日本の平安京は、よく知られているが、西方のイラクに「平安京」があったことは、あまり知られていない。

バグダッドが首都として選ばれたのは、チグリス川やユーフラテス川に囲まれ、各国との商売もしやすく、物資が手に入れやすい絶好のロケーションだったからである。

川があるということは、飲み水や農業のための水が充分に確保ができる。食料の確保は、人口増加には欠かせない。

アッバース朝の最盛期には、100万人ほどの人々がバグダッドに住んでいたという。この数は、3万のモスク、1万の公衆浴場があったことから推測されている。

一方で日本の平安京。こちらの人口は、だいたい13万人と言われている。こうして比べると、当時のバグダッドの繁栄ぶりとスケールがわかる。

チグリスやユーフラテス川を伝って運び込まれたのは、中国からは絹織物や、陶磁器。東南アジアからは香辛料。アフリカからは金や象牙。バグダッドからは、貴金属や紙、ガラス製品などが、世界各地へ運ばれた。

中心地には円城都市

762年から4年の歳月をかけ、バグダッド中心地に完成したのが、円城都市である。

なぜ円城なのかは定かではないが、メソポタミア文明の時代にも、似たような形の都市があったため、それに倣ったのではと言われている。

バグダッド円城都市
チグリス川のそばに作られたバグダッドの円城都市。3重の城壁に囲まれ、4つの門がある。

都市の遺跡は残っておらず、その全貌は、だいたいこんなもんじゃね?という想像図に頼るほかない。都市の直径は2.5メートルで、中に出入りすることができたのは、王朝関係者など一部の人間に限られたと言われる。

製紙法の伝達でモーレツ学問

その頃、東の方でぶいぶい言わせていたのが、唐である。我々の祖先である遣唐使が、「唐に学んだるで〜」と、足しげく唐へ通っている時代。唐とアッバース朝は、世界をリードする帝国として名をはせていた。

西はアッバース朝。東は唐。この2大勢力による天下分け目の戦いが、751年にタラス(現在のキルギス)で起こった「タラス河畔の戦い」である。

戦はアッバース朝の勝利。アッバース朝が捕虜として捉えた唐軍の中に、紙すき職人がいた。これにより、製紙法がバグダッドをはじめとする西方へ伝わった。

それまでバグダッドで「紙」として使われていたのは、羊の皮でできた羊皮紙であった。羊皮紙に書かれた文字は、消したり書き直したりすることができたので、広大な地域を治めるアッバース朝では、行政文書の改ざんなどが、当時の問題になっていた。

しかし、亜麻布による紙製法が広まったことで、改ざん問題は解消。また、紙のおかげで文学や学問も発達した。

それまで口伝で語られていたり、羊皮紙に書かれていたイスラーム教の聖典コーランも、紙のおかげで、どんどこ写経され、コーランが街中に出回るようになった。羊皮紙を使っていた頃は、コーランを作るのに、何百もの羊が必要であり、手間もかかったのである。

コーランが出回れば、イスラームに関する法律、神学、歴史学といった学問の本も進み、関連書も出回るようになる。

これにより、やる気スイッチが入った当時のアラブ人たちは、イスラーム関連の学問だけではなく、古代ギリシャやサンスクリット語の学問書まで翻訳し始めた。

世界最先端をゆくイスラーム

バグダッドでは、ギリシャ語文献をアラビア語に翻訳するための、「知恵の館」なる図書館が作られ、本格的な研究が進んだ。

それにより、もともとアラブの学問にはなかった、哲学や論理学、医学、数学、天文学といった幅広い学問も研究されるようになったのである。アリストテレスやプラトンといった我々がよく知る哲学者の著書もその中にはある。

当時、イスラームの医学は世界最先端を行くほどであり、バグダッドには世界初の総合病院が作られた

中でも、その当時を代表する知識人イブン・スィーナーの『医学典範』は、ラテン語に翻訳され、ヨーロッパの医学学校で400年もの間、教科書として使われたという。

このように、古代ギリシア語からアラビア語へ。そしてアラビア語からラテン語へと翻訳された学問書が、ヨーロッパで出回ることで、近代ヨーロッパの礎となったのである。

どうにも歴史というのは、西洋が偉いんだぞ、えっへんという視点で書かれているような気がする。しかし、こうしてみると、ヨーロッパの繁栄というのも、イスラームやアラブをかませてのことだと言えるだろう。

インド洋航路を開拓したんやで!とドヤ顔で語るヴァスコ・ダ・ガマを支えたのも、アラブ人である。「インドまでの道のりがわからん!不安や」とガマがいうので、航海慣れしたアラブ人航海士、イブン・マージドが水先案内人として、案内したのである。

現在、バグダッドのムタナッビー通りで、定期的に開かれている古本市がある。アッバース朝時代、この場所には100軒を越す書店があったという。先の「知恵の館」で、翻訳された本がこの場所で売られていたのである。

現代の古本市は、かつて学問の中心地ともなったバグダッドの名残でもあろう。

紙の技術が中国からバグダッドへ伝わったことは、インターネットの登場のごとく、革命的と言えるだろう。

栄華を極めたバグダッドであったが、1258年に巨大なモンゴル帝国に攻め入られる。バグダッドが陥落すると、知恵の館や翻訳された文献、学術書は、モンゴル帝国によって、すべて焼き払われてしまった。

歴史書には、戦の様子についてこう書かれている。

チグリス川は2度染まった。大量の虐殺による血で染まり、打ち捨てられた書物のインクで青く染まった。

今では、その見る影もなくなってしまった、かつての平安の都バグダッド。ふたたび、輝きを取り戻す日はやってくるのだろうか。