騒乱か祭りか。イラク反政府デモの前線で見た意外なもの

2019年11月中旬、私はイラクの首都バグダッドにいた。

ちょうどその頃のイラクは、騒乱の中にあった。イラク各地で、若者たちが、腐った政府はいらねえ!仕事よこせ運動をおっぱじめていたのである。

高齢化社会ニッポンからみたイラク

デモの中心となっているのは、主に90年代以降に生まれた若者たちだ。電車で無理やり座ろうとするおばさんのごとく図々しくいえば、ギリ私と同じ世代である。

大学を出ても仕事がねえじゃんかYo
なんで大卒なのに、タクシー運ちゃんの仕事しかねえんだYo
政府は石油で儲けてんのに、なんで俺たちの仕事がねえんだYo
なんで公務員の仕事を得るのに、賄賂を払わなきゃいけねんだYo

怒れる若者たちの原因たちは、こんなところである。

イラクでは、15歳から24歳の若者が人口の60%を占めている。さらに、そうした若者の失業率は25%にもなる。女性に限っては、その数字は63%にものぼる。

高齢化社会となり、海外からでも人手が欲しい日本からすると、なかなかピンとこない感覚だ。

人口ピラミッドをみるとその差はあきらかである。

エネルギーと暇を持て余した若者に、怒りを加えるとどうなるか・・・それは高齢化社会に生きる日本人にとっては、想像しがたい未知の化学反応である。

メディアの報道を追っていくと、日を重ねるにつれ死亡者と負傷者の数が増えている。

10月1日から11月中旬に至るまで、死亡者数は300人、負傷者数は1,500人以上にものぼっていた。

報道の数値だけを追えば、いかにもおどろおどろしい光景が繰り広げられているに違いない、と思う。

しかし、実際に見るとそれは切り取られた一部であって、フレームの外には、多くの光景が広がっていることに気づかされる。

騒乱か祭りか

実際デモというのは、どのように行われるのだろうか。デモに疎い人間にとっては、よく分からない世界である。

会社帰りなり、学校帰りの若者が、平日の夜や週末に数時間限定で抗議する、というのが私の中でのイメージである。あくまでデモや抗議は、余暇で済ますという感覚だ。

しかし、目の前にいるイラクの若者たちは、ほとんど仕事らしい仕事がないので24時間ヒマなのである(デモの影響で一部の会社や学校も閉鎖になっていた)。それにエネルギーも有り余っている。

するとどうなるのか。

24時間泊まり込みで、デモ体制なのである。

しかし、いくらやる気にみちあふれる若者といえども、日本のコンビニのごとく24時間デモのために稼働することはできない。彼らが敵対する治安部隊も、休息と睡眠が必要である。

よって多くの人が活発に活動する時間に、デモも激化する。

一方で、コンビニバイトの時給が高くなる時間帯は、若者たちの士気も下がるのか、比較的落ち着いた雰囲気が漂っていた。

デモの中心地となっているタハリール広場は、とにかく若者(9割が男子)であふれていた。ハロウィーンの渋谷レベルではない。


人であふれかえるタハリール広場。週末の渋谷並みに人が多い


2003年に米軍の爆撃を受けてから廃墟となっていたが、デモ開始直後に若者たちによって占拠されたビル。最上階にトルコレストランがあったので、「トルコレストラン」と呼ばれている


タハリール広場の下を通る道路は、反抗アートで彩られ、イラクの巨大な国旗がかかげられていた

パリピのごとく踊るヤングもいれば、デモで犠牲になった同志を悼む者、路上でサッカーをおっぱじめる一団、ただぼーっとその場を眺めている人々、食事の配給にいそしむもの、明日に備えて床につくもの、などさまざまな若者がそこにはいた。


タハリール広場の群衆を眺めていた青年たち


道路の真ん中に設置された犠牲者の追悼コーナー。コーランやアメちゃん、犠牲者の写真などが置かれている


追悼コーナーでろうそくに火をともす少年たち。デモ隊がかぶっていたヘルメット、空になった催涙弾ガスや弾薬がちりばめられていた

デモ隊の救護施設はもちろんのこと、泊まり込みでデモを続ける若者のために、毛布付きの寝床コーナーが設置され、食事やスナック、ドリンクなどを無料で配布する人々もいた。長期でデモを行えるのは、こうした団結力や助け合いもあってのことだろう。


路上に設置された寝床コーナー


長期のデモにそなえてか、着替え用の衣服を無料で提供するコーナーも。バーゲンさながらである


深夜に配給用のピザを大量生産する若者たち。もちろんピザは無料

デモに参加するというよりも、仲間に誘われてやってきたというモチベーションの参加者たちなのか、水タバコを吸いながらくつろぐ集団もみられた。


路上に設置された水たばこコーナー


路上で水たばこを吸う軍団。くつろぎすぎじゃないか?

さらには、そこかしこで即興の野外ナイトクラブも出現していた。大音響のアラブミュージックにあわせ、ヤングたちが踊るのである。日本のクラブとの違いといえば、酒がないということと、男子しかいないということである。

ひえっ!?

踊りすぎじゃね!?

密かに思った。みな、エネルギーと時間を持て余しているのではないかと。

その空間は、デモというよりも祭りであった。いや、むしろデモという名目で、その場の雰囲気を楽しんでいるようでもあった。

私は、イラクの若者たちをみくびっていた。

というか高齢社会で長らく生活していたことで、若者のみなぎるエネルギーが集結するとどうなるのか、ということを忘れていたのだ。というかバブル崩壊後に生まれた人間としては、そうした現象すら想像つかない。

騒乱の前の静けさ

翌朝。コンビニバイトの時給が高い時間帯に、ふたたびデモの中心地となっているタハリール広場へ向かった。

時間が早すぎるためか、あたりは静まりかえっていた。

そこかしこに、毛布のくるまれた物体がある。ホームレスと見間違えそうになるが、くるまれているのは若者たちである。11月のバグダッドの朝は、気温10度以下にもなる。


トゥクトゥクも寝床になっている模様

トゥクトゥクは、普段は市民の安い移動手段となっているが、デモの間は負傷者を救急車よりもはやく病院へ送り届けるという役目を果たしたことで、一躍デモの象徴にもなった。


道端で声をかけてきた早起き青年たち。みな10代であった。うち1人(左)は、どうもオネエらしかった。声質といい振る舞いといい、イラクの楽しんごである。他の2人はどう思っているのだろう

タハリール広場を通り抜けて、みえてきたのは、グリーンゾーンと呼ばれるエリアにかかる橋。橋の下には、ユーフラテス川とならんで、メソポタミア文明を生み出したチグリス川が流れている。


グリーンゾーンへかかるジュマリヤ橋からみえるチグリス川

グリーンゾーンは、日本でいう霞ヶ関のような場所で、政府機関やアメリカ、イギリスなどの大使館などがある。いわば、官僚エリアである。

橋の上は分断されていて、グリーンゾーン側を治安部隊が占拠。一方でタハリール広場側を治安部隊が占拠していた。日中は、橋の上でこの両者がぶつかり合う。デモの前線ともいえる場所だ。

橋へ向かうのにチェックポイントが数カ所あった。といっても、一般の市民たちによる自主的なもので、簡単に荷物と身体をポンポンと叩いて検査する程度のものであった。


橋の手前にある検問所でチェックをうけるイラクの楽しんご。以前デモ隊の中に、ナイフを持ち込もうとした人がいたそうで、このような検問所が設けられたらしい

橋の真ん中は、デモ隊によってバリケード封鎖されていた。


デモ隊によって封鎖されたジュマリヤ橋。バリケードで眠る若者もいた

ここにも多くの若者たちが、毛布にくるまって寝ていた。近くで寝ていた20歳の若者は、イラク南部にある都市、ナジャフからやってきて、7日間も橋の上で寝泊まりしているのだという。ごくろうなことである。


橋の上で毛布にくるまって寝ている人々

この橋は日中になるとデモ隊と治安部隊が衝突する場所である。10月中旬には、この場所で治安部隊の催涙弾が頭を直撃して、亡くなった若者もいる。

ニュースで聞く限りでは、おどろおどろしい場所というイメージしかない。そして実際そうなのだろう。

しかし、こんな場所で、ちびっ子がうろうろしているのには、驚いた。

いっちょ前にヘルメットをかぶり、橋の上でうろうろしていたちびっ子たち

あんたら、何しとるん?

自分がいうのもなんだが、くもんに通ってそうな年頃のちびっ子が、橋の周りできゃっきゃしていたり、愛国心むき出しで国旗を持ち、橋の中心部へと、ずんずんと進んでいくちびっ子を見たときは、たまげてしまった。


国旗をかかげ、ひとりずんずんと進んでいくちびっ子

デモの目的すらも理解していなさそうな、ちびっ子である。

一体どうなっているんだ。

きつねにつままれたような気がした。しかし、これもまた事実である。

イラクで起こっているデモは自分にとって遠い存在であった。

けれども、バリケードをつくり、そこで眠りこける若者たちや昨夜の若者たちの熱気は、60年代に日本で起きた学生運動や安保闘争をおもわせるものがあった。

若者たちが街へ繰り出しデモを起こし、権力に対抗する様子は、今の日本人からすれば「まあ、物騒だわね」と冷ややかなで見られるのだろう。

しかし、日本でも若者たちが新宿駅を占拠し、放火だの投石だのをして、暴れまくった時代が確かにあった。1968年におきた新宿騒乱事件である。

いや、決して両者が同じだというつもりはない。でも、どこか似ている。

国が成熟し、高齢化する日本だが、そんな国でかつて存在したであろう、若者たちの熱気をバグダッドで感じたような気がしてならないのだ。それは、バブル崩壊後に生まれ、高齢化社会をいきる人間が、触れたことがないものである。

だからこそ、どこか懐かしく、愛おしくもあった。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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