英語で仕事ができるは、英語で生活できるとイコールではない

仕事人生の大半を英語で送ってきたせいか、英語生活には問題がないと思っていた。しかし、最近になって自分の英語力の低さに愕然とすることがあった。

「テレビの音量を下げて」と言った簡単な表現が分からないのだ。と言うのも、これまで仕事生活でしか英語を使ったことがなく、実際に英語を話す人と暮らしたり、恋愛をしたことなど皆無なので、こうした日常表現がまったく持って抜けていたのである。

私の少ない単語帳の根底を占めているのが、demolition(解体)だとかretaliation(報復)といった日常生活に先ず出てこないであろう、物騒な単語ばかりなのである。好きなドラマも脱獄系の「プリズン・ブレイク」とか、麻薬王系の「ブレイキング・バッド」なので、インプットされるのは日常で使い道のない単語ばかりである。

生活の中でも特に欠如していたのが、恋愛関連の表現だった。そもそも相手もいないので、そんなシチュエーションに出くわすこともない。しかしひょんなことからそんな状況に巡り合ってしまい、そこで私はbig spoonだとかlittle spoonだとかいう単語を知った。

というわけで、恋愛単語を増やすべく、興味もないのに英語の恋愛リアリティーショーを見まくることにした。ほう、アプローチする時にはこんな表現を使うのか。しかし、咲きかけた恋はすでに枯れており、そんなことをしても後の祭りである。そして、せっかくこしらえた表現は、それ以降一切使われず、倉庫の中の物置として完全に忘れ去られている。

アメリカで長らく暮らす日本人の友人と話していると、まあ知らない単語がたくさんあるもんだと気づく。病院に行くことがほぼないせいか、医療関連の単語はまったく知らない。友人は、当たり前のように英語で本を読む。しかし、私はどうも英語で本が読めない。

上海の友人も「英語で本を読むと世界が広がるよ」などという。確かにその通りで、語彙力を高めるには、うってつけである。どうしても日本語版がない時は、英語の本も読むが、それは情報収集が目的の場合。娯楽で英語の本を読むことはない。おそらくそれは、英語の本を読んだとて、母国語のように英語で自由な表現ができるとは限らない、という一種の諦めから来ているような気がする。

一時期、ブログを英語で書こうと思ったことがあるが、語彙力とセンスがないせいで、まあつまらない。時間もかかる。日本語のテンポや感覚を、同レベルで英語で表現するなんて、無理なんじゃないか。特に英語が第二言語である自分にとっては。というかそれをマスターするには、膨大な時間がかかりすぎる。それなら日本語を磨くほうが早い。

そう考えると、結局英語が自分にとって単なるツールでしかないことに気づく。情報を得るため、お金を稼ぐため。人の輪を広げるため。見地を広げるため。そして、娯楽に関してはどうしても日本語でしか楽しめない。小説だったり、お笑いだったり。英語のスタンドアップコメディを見ても、感覚が違いすぎて、逆に困惑する。

英語ができるという自分というのは、単なる錯覚に過ぎず、しょせん自分に関係のある分野においてしか、自分は英語というものを知らないという結論に至っている。