海外での日本人との距離感。日本人コミュニティを離れるまで

海外生活を送る上で、誰もが一度は悩むのが日本人コミュニティとの距離感だろう。

ある人は、異国という孤独な環境で積極的に同郷の仲間を作るし、とある人は、窮屈な人間関係により「海外に住んでまで日本人と仲良くする必要があるのだろうか」と悩む。

当の私といえば、ドバイに来た当初は日本人コミュニティの一員として、それなりに社交に興じたものである。けれども、今ではジャングルの奥地に住む森の民のごとく、日本とはまるっきり関係のない生活を送っている。

豪華なクルージング、ホームパーティ・・・何がしたいんだ自分

ドバイに来た当初は、知り合いの日本人もいなかった。日本人が集まる会に誘われれば、喜んでいったものである。異国で会う久しぶりの日本人。日本語での会話。それなりに楽しいものであった。

普通の飲み会もあれば、豪華な邸宅を貸し切ってのホームパーティー、クルージングなど、ドバイらしいイベントなどもあった。

決定的だったのは、とある有名歌手のコンサートに参加した時のこと。イベントを企画してくれた本人からの誘いもあって、あまり興味はなかったが参加した。

実際に行くと、有名歌手をナマで観れるというのはそれなりに興奮するし、コンサート会場の熱気は参加者との一体感を生み出す触媒ともなった。コンサート帰りの我々は、疲れ切っていたが、それでも一時の楽しさを共有した、という達成感が参加者の間には漂っていた。

私もそうした興奮の中にあったが、一方で考えた。

本当にコンサートに行きたかったんだったけ?

ドバイでわざわざコンサートに行く必要はあったのだろうか?

参加しておきながら、企画者には大変無礼な感想である。でも、どことなく他人と盛り上がりたいがために、自分が興味のないことをして、一体何になる?という疑問も湧いた。

そこから急速に日本人コミュニティ離れが進んだ。というより、自分がやりたいことに集中したいと思った結果、日本人コミュ二ティを離れていた、という状態だ。

エミレーツCAという呪縛

UAEに住む日本人人口は約4,000人。一方で、中国人や韓国人の人口は年々伸びており、UAE在住の韓国人に至っては約1万人ほどだ。人口がここ数年でほとんど変わっていないのは、日本ぐらいである。

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日本人在住者そのほとんどが、男性駐在員もしくは女性エミレーツCAなのである。日系以外の企業で働く人はそう多くはない。よって、日本人の集まりを装う普通の飲み会であっても、裏名目は、駐在員とエミレーツCAの合コンに近いものもある(もちろんいつもじゃないけど)。

能天気な私が、この裏ルールに気づくのにはずいぶんと時間がかかった。合コンなど生涯参加したことはないが、知らぬ間にそうした要員になっていたらしい。

華やかなエミレーツCAたちは、異国で疲れ切った日本人戦士たちの飲み会に、ささやかな癒しを与えるらしい。

エミレーツCAがいない席であっても、必ずエミレーツCAは話題にのぼる。彼女や知り合いがエミレーツで働いているだとか、「エミレーツCAたちを今から呼んじゃおうか」などというものまであった。

どうやらエミレーツCAとお近づきにあることは、一種のステータスでもあるらしい。「知り合いのエミレーツクルーに頼んで、ビジネスクラスにアップグレードしちゃったよお」などという輩もいた。

エミレーツCAでない私は、ちょっと気まずい。どこへ行っても、エミレーツCAの呪縛がまとわりつく。

中には、「CAといったってしょせんは肉体労働の職業じゃん?俺は興味ないね」などと言っていたやつが、数ヶ月後にはエミレーツCAの彼女を作っているのだから、エミレーツCAは得体の知れない一種の魔力を持っているのでは、とすら思う。

ドバイにはびこるエミレーツCA女子の脅威

呪縛のせいか、エミレーツCAでなければ、価値なしという考えにすら侵食される。そんなのはごめんだ。

いや、異性としてよく見られたいと戦いたいわけでもないのに、勝手にそうしたランク付けに巻き込まれてしまうのである。下手したら、私は、エミレーツCAという花を引き立てる草である。巻き込まれ事故も草になるもの勘弁だ。

エミレーツCAたちを悪くいいたいのではない。実際に出会ったクルーたちは、容姿も素敵で性格もよい人ばかりである。距離をおきたいのは、そうしたエミレーツCAであることに価値を置く目であり、システムなのだ。

所属企業で人を判断する社会

駐在員が多いということもあってか、自己紹介や人を紹介する時に必ず添えるのが、所属先の企業だ。「某会社の誰々さん」といった風に。なので、こちらもその人を見る時、いつもどこそこの会社に所属している人、という目でみてしまう。

コミュニティが小さい分、いろんな業種の人に会えるのも魅力だが、どうにも違和感を覚えてしまう。別にドバイにいる駐在員たちに限ったことではない。日本では一般に蔓延する症状のようである。

一方で、日本人以外と会う時、所属先の企業や役職などほとんどあてにされない。問われるのは、「己が何者か」ということである。そこでは、企業の知名度や規模、役職の高さが、個人の権威に投影されることはまずない。

いくら大企業や有名企業につとめていても、その人に魅力がなければ、単につまらない人で終わる。

日系企業に勤めたことがない私は、つねにカヤの外である。世界的に知られている企業であっても、日本人は知らない。日本人以外に言えば「あ〜あそこね〜」と言ってくれるが、日本人からすればよくわからない会社に勤めてるのね、思われる。

逆に言えば、日本人の間では「すごおい!」と思われるような会社は、日本人以外はまったく知らなかったりする。学歴も然りだ。東大だろうが、早慶だろうが、MARCHだろうが、日本人以外にとっては同じである。

むしろ、大学で何を勉強したのかや、博士号なのか、修士を持っているのかなどが問われる。一方で、日本ではまったくといっていいほど、それは聞かれない。大学名のみが重視される。

日本人とつるむとき、そうした”常識外れの常識”にいることを実感する。まるでパラレルワールドである。なので日本人以外と話す時は、その常識を捨て去らねければいけない。

そんなわけで、スムーズに”常識”的な世界に馴染むためにも、一方の世界を切り捨てなければいけないのだ。それが己の出自であったとしても、大海原で生きるのには必要不可欠なのである。

バイアスがかかった人間関係に意味はあるのか

ブログをやっているせいか、よく日本人に「会いませんか?」などと声をかけられる。別にやましい目的ではなく、同じドバイにいるもの同士だったり、ドバイに行くので、ということである。

考えてみれば不思議である。日本に住んでいる日本人に、「同じ日本に住んでいるから会いましょうよ」と尋ねるだろうか。ましてや、見知らぬ人間との会話など、日常においてほぼ発生しない日本である。

確かに、ドバイにいる日本人という共通点を持っているが、それ以上でもそれ以下でもない。そんな心もとない共通点をひっさげて、赤の他人と会おうという意気込みは、よく理解できない。

それならば、同じ世代で同じ職業のインド人なりフィリピン人なりと話した方が、話が合うような気もするが。実際に、あってみると共通点は、日本人とドバイにいるということぐらいなので、話が合うことはまずない。

お互いにドバイ生活の苦労や不安などを言い合って、終わるだけである。そこに生産性やクリエイティビティはない。続いたとしても、引き続きお互いの近況だったり、ドバイへの不満を語ったりするだけである。

なにせ、日本だったら絶対に話すことのない人と話しているわけである。いうなれば、渋谷でランダムに歩いている人に声をかけて、お近づきになろう、というぐらい的外れなことをしているのだ。

こうした現象は心理学でいうところの相対性の罠によるもの。平常時なら、知り合いにも仲良くもならないところだが、異国という非日常的な空間で結ばれた共通点は、より強い意味を持つ。

だから、同じ日本人でドバイに住んでいるというだけで、不思議と仲良くなれる、仲間になれる、という認識をもってしまう。

そこに、海外生活ならではの孤独なんかも手伝って、浅い人間関係に拍車がかかる。少なくとも私からしたら、である。日本で同じ人に出会っていたら、果たして仲良くなっていただろうか。

行動経済学者のダン・アリエリーも、自身の経験をもとに著書「予想どおりに不合理」の中でこう語っている。

わたしたちはあらゆるものごとを相対性の色メガネで見ている。外国やよその土地でだれかに出会い、不思議な結びつきを感じたとしても、その魔法はその環境に限定されたものかもしれないと覚悟しておこう。そうすれば、のちのち魔法が解けて、幻滅するような事態に陥らずにすむかもしれない。

孤独だし、仲間もいないといって、すがりつくかのように表面的な人間関係で、生活を磨耗したくはない。

だったら、いっそのことやめてしまえ、というのが私の決断である。

日本人であるという共通点は大きな意味を持たない

海外に住む日本人は、母国で理解し合える強い味方でもあるが、時にはそれらが形成するコミュニティに息苦しさを感じることもある。

私は、駐在員のヒエラルキーがどうの、という日本人コミュニティの闇の核心に触れたことはないが、見聞きすることはある。それは聞くだけで、身震いするほど恐ろしくて、どうしようもない世界である。

そこで悩む人は多い。そんなにつらければ、単純に離れてしまえばよい。海外に住む日本人なんて微々たるものだ。日本人以外の人間なんてごまんといるのだ。

言葉の問題が・・・と思うかもしれないだろう。だったら、勉強するしかない。言語をマスターしていなければ、日本人コミュニティを離れて、生活を満喫という選択肢さえ持てないのだ。

多国籍な都市ドバイに住んで思ったのは、必ずしも日本人という共通点は、人間関係を築く上でそんなに重要ではないということ。お国が違っても、趣味や趣向が同じ人間の方が仲良くなれるのだ。まあ、当たり前のことだが、海外にいると盲目的になるので、気づかず消耗していく人もいる。

一方で、日本人だからといってむやみやたらと距離を置く必要もない。英語留学をする人の中には、むきになって「日本人とつるむもんか!」と鎖国宣言をする人もいるが、そこまでしなくてもいいんじゃないか、とも思う。日本人であれ、異国の人であれ、自分が一緒にいて楽しい人と過ごす、それが理想的な人との距離感である。

ただ、それを見極めるためにも、異国で出会う日本人に対しては、必要以上につながりを感じてしまう、という点も心にとどめておきたい。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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