お金持ちの国?女性の人権は?日本人が勘違いしているサウジアラビアのリアル

私はサウジアラビアという国が最近まで嫌いであった。

なにせ、サウジアラビアについて聞かされることといえば、たいてい冷酷かつ残虐で、世にも奇妙な慣行が蔓延している、といった口調のものばかりであったからだ。

しかし、私がサウジを嫌っていた理由はもっと個人的なものである。最近までサウジアラビアは観光ビザを発行しておらず、観光客が気軽に入れない国であった。

そうした個人的な腹いせも含めて、簡単に外国人を入れてくれないケチな野郎というのが、サウジアラビアに対する印象を持っていた。サウジが人権問題などで欧米メディアから叩かれるたびに、嬉々としていたぐらいである。

しかし、いざ入ってみると今まで抱いていたイメージが一気に崩れ去った。なんだあ、人々は妙に優しいし、噂に聞いていたのと全然違うじゃないか。

そんなわけで、実際にサウジを歩いてみて感じたサウジのイメージとリアルをご紹介。

オイルマネーで国民はみな金持ち

オイルマネーで潤う産油国には必ずつきまとうのが、オイルマネーでウハウハな国というイメージである。

実際にサウジアラビアのサルマン国王が来日した時も、その豪勢な登場ぶりに島国の人々は、顔を見合わせて「サウジアラビアというのは、やはりオイルマネーで潤う石油王の国だべ」と合点した。

けれども、あのゴージャスさは、「アラブの石油王」という幻想をリアルに再現したパフォーマンスにしかすぎない。そもそも日本は、サウジから原油を大量に買っているお得意さんである。日本の原油輸入国のトップはサウジである。

考えてみれば、あのゴージャス登場には、日本から支払われた金も使われているんじゃないか。

一方で、サウジアラビアには貧しい国民も存在する。その貧しさは、日本で見かける貧しさ以上のものである。サウジアラビアの南部にあるアブハーを歩いていたときのこと。

6歳ぐらいの子どもが、マリーゴールドで作った花かんむりを売りつけにやってきた。どう考えても学校にいく時間帯である。不自然な子どもをいぶかしく思い、周りをみやると近くに母親と思しき姿があった。

ははあ、どうやら母親が司令塔となり、子どもに銭を稼がせているらしい。しかも、花かんむりで稼げる銭などたかが知れている。


例の親子

なんだか無性にむなしくなった。対外的にはあんなゴージャスパフォーマンスをしておきながら、学校にもいかずせっせと日銭を稼いでいる自国民の子どもがいるとは。

サウジアラビアの人口は、3,000万人。その内の7割が自国民である。人口一人当たりのGDPでいえば、最もオイルマネーで潤っているのはサウジでもドバイでもアブダビでもなく、カタールなのである。

オイルマネーで潤っているというと国民全員が金持ちというイメージを持ちがちだが、サウジに関しては自国民の人口が多いがために、すべての人々が裕福というわけではないのだ。

むしろ他の湾岸産油国では見られない、まずしき自国民がいることも事実なのだ。

公開処刑で斬首。恐ろしすぎる国

数年前に、サウジに住む日本人の知人と話した時のことである。サウジはどんな感じなんですかね〜?と何気なく聞いたつもりだった。

「知ってます?サウジのリヤドの広場に公開処刑所があって、そこで毎週罪人が罰せられるんです。ムチ打ちだとか、首切りだとか。ずいぶん前に広場を通ったんですが、処刑の後だったのか、あたり一面血まみれでしたよ」

戦慄した。

なんと末恐ろしい国なのか。それが初期の頃に抱いたサウジの印象である。その他にも、外国人が酒を持ち込んだだけで、国外追放だとか罰せられるだとか。もはや小説のような話である。

この国、相当やばいんじゃ・・・?

ジェッダに住む若いサウジ人に「公開処刑ってみたことある?」と聞いたところ、「父さんがそれは見るな、というから見たことはないねえ」とのこと。実際今でも公開処刑は行われているらしい。

これはもはやイメージというより、そのままであった。

サウジアラビアの女性はかわいそう

サウジアラビアの女性といえば、とにかく気の毒というイメージを持たれている。なにせできないことづくしなのだ。

女性の運転は2018年にようやく解禁。女性がスタジアムでスポーツ観戦をできるようになったのも同じ年である。女性の行動にも制限があり、父親や夫の許可なしには、自由に一人で出歩くこともできない言われている。

サウジアラビア観衆
ジェッダのスタジアムでサッカー観戦をする地元の人々

さらに、目以外を隠すスタイルも特徴的である。自由奔放な西洋の世界からすると、不自由に押しこまれたかわいそうな女性である。そして実際にある人々は、そんなサウジを女性の人権侵害だ、と糾弾する。


市場で買い物をするサウジアラビアの女性たち

サウジにいけば、さぞかし抑圧された女性たちがいるのでしょう、と思いきや、パッとみはそんな感じもない。外国人であっても、アバヤと呼ばれるロングスカートを身につけているものの、髪の毛は丸出しである。

サウジの若い女性であっても、思いっきりメイクして、自慢のロングヘアをふさあっとやっている。かくいう私も、そんな感じで歩いていたのだが、とがめられることもなかった。

道端には女性が普通に一人で歩いているし、私が街を練り歩いていても、人々は空気をみるがごとくである。アバヤを身につけなければいけないことを除けば、いたってその他の国と変わらない。

本当に抑圧されている女性は・・・

一方で、目以外を隠している黒ずくめの格好はどうなのだろう。サウジ国内では着用を義務付けられているようで、不憫である。

じゃあ、サウジの女性がサウジ国外にでれば、みな一斉にぬぐのだろうか。サウジからドバイへ戻る飛行機の中。私はアバヤを脱いだが、周りの女性は一向にスカーフも顔のマスクもとる気配はない。

一方で、まったく逆の現象が見られるのがイランである。イランからドバイに飛行機で戻る機中、離陸と同時にほとんどのイラン人女性は、スカーフなんかクソ食らえ、といわんばかりに、みなスカーフをもぎ取っていた。

ドバイについた頃には、どちらさん?と言わんばかりの別人な女性たちであふれている。

ちなみにドバイを観光しているサウジ女性を見ていても同じなのだ。顔まで隠す義務も、アバヤを着る義務もないドバイだというのに、彼女たちは着用し続けている。中には脱ぐ人もいるが。

このことから言えるのは、サウジの女性たちは、自らの意思でスカーフなりアバヤを身につけているということである。「つけさせられている」のではない。

信仰心が深いか、まではわからない。単なる習慣である可能性もあるからだ。常に肌や顔をさらさない生活をしていると、公の場でさらすのが恥ずかしいと感じる人もいる。

一方で、完全にやらされているのがイラン人女性である。イランでは法律で、スカーフの着用が義務付けられている。「義務」ゆえにつけているため、多くのイラン人女性たちは、しゃーないわね、といった感じで着用している。


イランのバラ祭りで出会った女性たち。全員弁護士というインテリ軍団

なので、髪をしっかりと隠す、というよりもおしゃれアイテムの一部として使っていたり、もはや髪がほぼ丸見えな感じで、布がかろうじて乗っかっている、という状態である。

世界が見過ごしていること

サウジの国王来日しかり、女性の運転解禁しかり、映画館の解禁など日本のメディアで取り上げられるのは、サウジのお気楽な話題である。

サウジ女性運転解禁のその裏で・・・サウジ女子の戦いはまだ終わらない

女性のサッカー観戦解禁から1年。サウジでサッカー観戦に行ってみた

とくに女性や人権といったトピックに敏感な欧米メディアは、こうした一連の動きを好意的に、さも大げさにたたえている。「サウジもいよいよ、こっち側の世界にやってくるのね。歓迎するわ」とでもいいたげである。

しかし、そうした歓迎されるニュースは目くらましにすぎない。

目くらましの裏で起こっていたのは、石油の値段が低下したことによる景気の鈍化や、「サウダイゼーション」と呼ばれる自国民の雇用拡大の政策にともなう大量の外国人のサウジ離れである。2016年からでいえば、150万人の外国人が国を離れたと報じられている。

さらにいわずもがな、イエメン内戦への介入である。サウジ率いる連合軍の爆撃で一般市民も巻き添えを食らっている状態だ。その上、コレラや飢餓といったもはやこの世の終わりのような不幸の連鎖にむしばまれている。国連に「世界最悪の人道危機」といわせしめるほどだ。

しかし、欧米メディアも含め誰もこのことは、大げさに報道しない。よって密かに殺戮が行われているだけである。

女性の人権を侵害する国、お金持ちの国。どうやら我々は、メディアが大げさに書き立てるサウジ像に踊らされているにすぎないようだ。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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