前代未聞だらけのBTSコンサート!?なぜ日本人ファンは激怒したのか

いろいろあったようだが、サウジアラビアでのBTSコンサートが無事に終わったようだ。

場所が場所なだけに、コンサートは異例づくしだったのだという。

最近は丸くなっていると言われるサウジだが、元々はヤーさんばりの勢力を誇ったガチガチのイスラーム教国家である。

元ヤンが完全に元ヤンであったことを隠せないように、サウジもまたいたるところで、元ヤン気質を見せてしまうのである。

サウジではお辞儀NG!?

同性愛が認められてないサウジアラビアなので、メンバー同士のスキンシップを極力減らしたり、礼拝の時間には、コンサートのリハーサルが一時中止したのだという。

一番興味深いのは、お辞儀である。どうやらコンサート終わりには、メンバーがお辞儀をするらしいが、サウジコンサートではお辞儀NGとなったらしい。

なぜか。

イスラーム教において、人間が頭をさげるのは、神しかいないからである。お辞儀文化がある日本や韓国人にとっては、衝撃的だろう。

このギャップに一時期悩んだこともある。イスラーム教に改宗したての頃、このことを知った。しかし、困ったものである。なにせ日本人としては、お辞儀はマストだからである。

お辞儀なくして、日本社会を生きることは難儀である。日本人であること。それはすなわち、半ばお辞儀マシーンと化することでもある。

しかし、イスラーム教徒になったとたん、それをやめい!と言われるのである。困ったものだ。

ちょうど、その時は柔道もやっていた。柔道では稽古場に入ったら、必ず一礼をするのである。試合の前と終わりにも、お辞儀をする。それが柔道の礼儀だ。

イスラーム教徒になることは、それすらもやめなければいけないのか。このような葛藤を一時期抱えていたこともあった。

イスラーム教徒にならなくとも、海外で働く以上は、お辞儀をやめる必要性にかられる。お辞儀の意味なんぞ、誰も理解しないし、むしろ相手になめられる可能性もあるからだ。

相手の目をまっすぐみて、握手をぐいっとする。ここで、自信ありげなオーラを出すとなおよし。これがお辞儀に代わる一連の動作である。

BTSファンが激怒した理由

話を戻そう。無事に終わったかのようにみえたコンサートだったが、とある日本人のBTSファンが書いた記事が、注目を集めた。

BTSサウジアラビア公演が地獄だった話

彼女いわく、史上最悪のコンサートだったとのこと。さらには、もう2度とサウジでコンサートをやらないでほしい、とまで言っている。

何が彼女をそう思わせたのか。

それがコンサートに参加した、現地サウジアラビア人ファンのマナーであった。

もちろん全員ではないが、たまたま彼女の前にいたサウジ人ファンたちが、席の上に立って、終始ワーキャーしたのだという。係員や彼女が何度も注意したにも関わらずである。

おかげで、彼女は会場にいるのに、何もみえずにコンサートが終わったと言っている。

異文化に接触するほど起こり得る話

なんだか昔の自分をみているようで、懐かしくなった。

同時に、昨年サウジにサッカー観戦に行った時のことを思い出した。喫煙禁止の場内で、隣に座っていた家族の父ちゃんが、堂々とタバコを吸っていたのである。

女性のサッカー観戦解禁から1年。サウジでサッカー観戦に行ってみた

美しき日本人としてマナーや礼儀を守ろうとする自分。しかし、そんなものなんぞ存在しない世界に飛び込んでしまった時に生じる、腹立たしさや戸惑い。

ドバイに来た当初は、いろんな怒りがあって、「ゴジラになったらバージュ・カリファを真っ先にぶったおしてやるかんな」と真剣に考えていた。

バージュ・カリファは世界一高い高層ビルで、ドバイの象徴みたいなもんである。

それを何度か経験していくと、日本の文化やルールは世界から見ると特殊な国なんだなあ、と思うようになる。

日本人である自分と、そうでない他者の区別がつくようになる。外から客観的に日本を見ることができる。

そして、文化や国に優劣をつけることがナンセンスであることに気づく。日本人にもいい人、悪い人がいる。同じように、アラブ人にもいい人、悪い人がいる。

それはそうと、もし私が彼女だったらどうしただろうか。今の私だったら、席を移動するか、同じく自分も席に立ったと思う。

自分のポリシーや美学を貫き通すのも素晴らしい。

しかし、自分がしなければいけないのは、今のその場をめいいっぱい楽しむことである。「和」が良しとされるのは、島国の日本ならではである。時には、和を大事にするがために、自己犠牲すらいとわない。

日本を一歩でれば、みな己のために生きようと必死である。逆に、日本人には美とされる、周りに迷惑をかけないようとして、行動を慎むことが、あだになることもある。ひいては、自分が損をすることにもなるのだ。

時には自分をとらえる価値観を突き放すことも、大事なのだ。