海外に住んで思った差別よりひどいこと 

海外に住んでいると差別が身近な話題となる。実際に中東に住んでいた時は、差別かしらん?というものにもしばしば遭遇したし、ヨーロッパに住んでいると「アジア人差別ってあるの?」とよく聞かれる。

というわけで、私もこれまで差別は悪とし、できれば避けたいものと思っていた。

が!

この世には差別にも酷いことがあるということに最近気づいた。

無関心である。

ベルリンに住んで早1年。私は”無関心”というものに苦しめられてきた。友人も知り合いもゼロで移住したのはドイツに限らない。そのほか中東やアジアの国でも、条件は同じだった。しかし、ベルリンに住んでいるとなぜこうも辛いのだろう。

それはベルリンに移り住んで1年後、カイロを訪れた時にやっと判明した。

ただのこのこと歩いているだけで、ジロジロみられ、客引きに声をかけられたり、「ニーハオ」だのと言われる。この辺は長年やっているのでなんとも思わない。電車に乗れば、「ハーイ」と見知らぬ人が話しかけてくる。路上でひとり飯をやっている時には、その辺を歩いているキッズがちょっかいを出してくる。

通常であれば、辟易するかもしれない。

しかし私の心は嬉しさに溢れていた。

変態というわけではない。

あ、私ここに存在しているんだ、と。

これまでいた場所は、私という存在が異質である場所ばかりだった。だから一人でも自分が存在するという実感が持て、なんとか精神を保てていたのだと思う。

一方で無関心がデフォルトの場所では、自分がまるで透明な存在になった気がする。これは社会と繋がりが持てないとかいう以前の前に、誰にも関心を持たれない、自分がこの世に存在していない、という根本的な不安により、精神に決定的なダメージを与える。

ただ、私が感じている無関心は、悪いだけではない。逆に言えば、無関心は、ベルリンという多国籍な雰囲気と、誰が何をしようとほっといてくれるという自由と個人主義に裏打ちされている。ベルリンで出会った友人によれば、逆にその無関心さが心地よいのだという。

無関心の世界では、私は異質なアジア人ではなくなり、ドイツ人として時々扱われる。移民が多いこの国では、人種や民族に限らず誰もがドイツ人になりうるからだ。というわけで、私がドイツ人である前提として、話が進んでしまうことがある。

このドイツ人扱いは、良くも悪くもある。まあ、見た目でドイツ語が話せないだろう、と決めつけないからいいことなんかな、と思う一方で、ドイツ語ができない私にとっては「嘘やん、アジア人として扱ってくれよ」と思うのである。

一方で差別の世界では、私はアジア人であり、異質である。自分たちとは違う異物として、見せ物になったり、ちゃかされたり、尊がられたり、個々が抱く先入観の中で転がされる。

もちろん無関心の世界にも差別は存在するだろう。しかしそれでも無関心の方が精神に与えるダメージが大きい。これならば、差別を食らった方がマシだと思うのである。なぜなら、それが差別であっても、差別によって私はそこに存在する、と実感できるのだから。