「1時間後に新しいイスを持っていくから⭐︎」と突如電話がかかってきた。いつまでベルリンにいるかわからないという不確定な未来のため、家具付きのアパートに住んでいる。電話主は、物件を管理している不動産屋だ。
特に気にしていなかったが入居時に、備え付けのイスがボロいから交換しよう、という話になっていたのを思い出した。別に、使えるからいいんだけどな・・・
予言通り、不動産屋の男性が組み立て式のイスを持って現れた。どこ出身なのか?と聞くと、イスラエルだという。
男性はイスを組み立て始めたが、同時にイスラエルトークに花が咲く。特に興味深かったのが、兵役時代の話。彼は今は40歳を過ぎており、兵役についたのは20年以上も前のこと。しかし、その時の様子を鮮明に語ってくれた。
「軍に入る前は、戦闘部隊に入って敵と真正面から戦いたかったわけよ。でも、学生時代に写真を学んでたから、諜報部門に入れられてさあ。敵とバチバチにやり合うことはないの。初めは不満だったよ。でも今思えば、なんてラッキーなことだったと思う」
イスラエル人はやたらと”敵と戦わねば”という思想に囚われている。前回のイスラエル旅行で出会ったツアーガイドの男性も、「俺たちは、多くの敵に囲まれてるわけ。だから戦わないといけないのっ」などと、鼻息荒く語っていた。
彼らにとって、戦争をやめるというよりも、敵を抹殺しなければ「平和な世界」はやってこないらしい。1948年のイスラエル建国以降、戦いはずっと続いている。今思えば、イスラエル人から平和を希求する言葉をあまり聞いたことはない気がする。代わりによく聞くのは「戦争」。日本に蔓延する「平和」は、あの土地では絵に描いた餅のように、リアリティを失う。
しばらく諜報部門で働いていたが、事態が大きく変わったのは、ヘブロンで警備にあたっていた時のことだという。ヘブロンはパレスチナ自治区にあるのだが、首都ラマッラーやベツレヘムといった観光客が訪れる場所とは、明らかに雰囲気が異なる。イスラエル兵がそこかしこにおり、緊迫した雰囲気が漂う場所だ。

緊張感が漂うヘブロンの街(2008年撮影)

パレスチナの難民キャンプ近くにて(2008年撮影)
「あそこで本当の現実を知ったんだ。パレスチナの人々はとても貧しくて、なんで自分はこんなことをやっているんだと。イスラエル社会や政府が言っていた、アラブ人は悪で敵だという”洗脳”が解けた瞬間だったんだ」
メディアで見るイスラエル兵は、悪魔も引くぐらい無慈悲である。アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞した『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』でもそれがよく描かれている。しかし、あの情景は今に始まったわけではなく、キリスト教絵画のごとく、時代を経ても繰り返されている光景である。

パレスチナ支援の活動家とイスラエル兵が対峙。目の前で見るイスラエル兵の威圧感に圧倒される(パレスチナ、ナブルス近郊にて 2008年撮影)

笑顔を向けるイスラエル兵。たまにこういう人がいる(パレスチナ、ナブルス近郊にて 2008年撮影)

エルサレムの嘆きの壁近くで記念写真を撮るイスラエル兵。イスラエルでは男女ともに徴兵がある(2016年撮影)
側から見ればパレスチナ人を蹂躙している恐ろしきイスラエル兵であるが、やはり人間だから、10人に1人ぐらいは「これ、やばいんじゃね」と思う兵士もいるらしい。彼もその1人だった。
「ヘブロンに行ってから、もう軍にいることが耐えれられなくて・・・発狂したフリをしたんだ。それで病院送りになって、除隊というわけさ」
“精神がおかしくなったフリ”がどこまでイスラエル軍に通用するのかは分からない。しかし、「こいつは今にも仲間を殺すに違いない」と周りに思わせたらしく、彼の作戦は功を奏したそうだ。
あの地では常に戦争が繰り返されてきたわけだが、2023年10月に始まった戦争をきっかけに、彼はベルリンへと渡った。
「最近も停戦中にイスラエルに行ったけど、やはりあの場所にいる人は、ひときわ愛国心というか、ユダヤへの忠誠心が高いですよね。世界中にいる忠誠心の高いユダヤ人が集まった濃い場所というか」
イスラエルで出会ったカナダやアメリカ出身のユダヤ人たちの顔を思い出しながら私は、言った。彼らはユダヤ人の聖地であるイスラエルにいることに心酔しているようにも見えた。
「そうなんだよ。俺は左よりの思想だし、ユダヤ的なものはもううんざりなんだ。距離を置きたいと思っている。だからベルリンみたいな場所がいいんだ」
イスラエルは世界的に見ても稀有な場所かもしれない。何せ戦争が始まれば、ミサイルが降り注ぐので、人々はシェルター生活を強いられる。命の危険性があっても、決してあの土地を離れないのである。一体この世のどこに、ミサイルが降り注いでも、逃げないという選択肢を持てるのか。それは、かつて自分たちの国を持たず、流浪の民と呼ばれ迫害された歴史をもつ、ユダヤ人にしかわからない。
彼には小さな子どもが2人いるという。
「まあ、でもベルリンに住んでいれば、2人の子どもはイスラエルの徴兵に行かなくてもいいんですもんね」
「そうでもないさ、ドイツではまた徴兵制が始まるだろ・・・」
そうだった・・・
安全と思えたドイツの地でさえ、もはやそうではなくなっていたのだった。彼らはまだドイツ国籍を持っていない。けれども、今後長らくこの国に住むことを考えれば、あり得なくもない未来だ。
このご時世、どこを見ても戦争だ。翻って日本のことを考えれば、戦争が身近でないことがどれだけ幸せなことだったのだろうかと思う。
気づけば1時間も経っていて、立派なイスが完成していた。
