都会の住宅地でヤギの解体を体験。マレーシアでのハリラヤラジ

朝いつものように目覚める。何も予定はない。いつものように凡庸な1日を送るはずだった。

しかし、その数時間後、私はヤギを自らの手で解体しているのだ。

そんな予期もしない出来事に遭遇するのがマレーシアである。

ハリラヤラジはマレー語で、イスラーム教の犠牲際(イード・アル・アドハ)を意味する。詳しくは、残酷な祭り?イード・アル・アドハ(犠牲祭)とは?ヨルダン現地レポを参照。

祝日なので道路に人気は全くない。しかし、朝っぱらからモスクより大音量の呼びかけが絶え間なく聞こえてくるため、否が応でも叩き起こされてしまうのだ。

というわけで、マレーシアの犠牲際はどんなもんだろうとモスク近辺を散策。朝8時過ぎには、近辺のムスリムたちは、正装で続々とモスクへ向かう。その様子はまるでコンサート会場つめかける観客である。


モスクでお祈りの真っ最中

モスクでの祈りタイムが終わり、帰宅する人々。イスラームの祝日には人々は正装をしてモスクに向かう。マレーシアの男性はいつもは短パンTシャツとラフな格好だが、この日ばかりは、バティックと呼ばれる伝統的な布を腰に巻き、黒い帽子をかぶる。伝統を取り入れた美しいファッションにほれぼれしてしまう。

住宅地には、これから屠られる生贄の動物たちの姿があった。通常、アラブの国であれば、生贄は羊が相場だが、ここマレーシアでは生贄の顔ぶれもやや違う。

集合住宅地のためか、大人数で分けられる牛がメインのよう。ここマレーシアはヒンドゥー教を信仰するインド系の人々も住んでいる。


数時間後に屠られる生贄たち


住宅街に現れた巨大な生命体は、人々の好奇心の目にさらされていた

ヒンドゥー教では、牛は神と崇められる動物で、殺すことも食べることも彼らにとってはタブーである。多様な人々が住むマレーシア社会では、ある人々にとっては神であっても、別の人々にとっては、単なる生贄の餌食となってしまうらしい。

ヒンドゥー教の人々の思いたるはいかに・・・と一人ヒヤヒヤしてしまう。

住宅街を歩いていると、生贄と見られるヤギの集団が路上に繋がれていた。近くにいた住民に話を聞くと、1時間後に儀式を執り行うらしい。というわけで再び訪問すると、

「ま、とりあえず家で朝ごはんでも食べて行きなよ〜」

と言われ、どういうわけか赤の他人の家に上がり込み、ビュッフェ形式の朝食をいただくことになった。祭りというだけあって、家には30人ほどのジモティーが集結していた。内訳を聞くと、住んでいるのは5人家族のみで、あとは親戚、友達だという。

朝食を済ませると、イマームがお祈りを始め、儀式が始まる。そして、6人がかりの男たちが生贄を押さえつけ、イマームが蛮刀で、ヤギの喉元をすっと切っていく。

目の前で天昇する仲間を見て、数十分後の運命を悟った残りの生贄たちは、心なしか震えているように見えた。ヤギの中には、昇天の直前に断末魔のような叫び声を上げる者もいた。

阿鼻叫喚の光景が繰り広げられているわけだが、対照的にジモティーたちはキャッキャとしている。


ヤギを囲み、笑顔でヤギの生前最後の写真を撮る女性たち。その前にはご臨終したヤギが横たわる。生と死が隣接する。いや、それは別物ではなく一体なのかもしれない。

天昇したヤギを足元に、陽気なポーズを決めて記念撮影したり。屠殺するのはもっぱら男性がメインだが、周りを囲む子どもや女性たちは、スマホで動画をとったりしている。

「毎年見ているから、特に怖いとか、かわいそうとかは思わないかなー」

と参加者である女性ティーンは言った。

確かに。

私も初めて見た時は、ひえええと思ったが、2回目ともなると、特に何も感じなくなるのである。自然の摂理として、脳も受け止めるらしい。

天昇したヤギたちは、鉄の棒にぶら下げられ、ここから解体フェーズとなる。ここでも、力仕事のためか男性陣たちが中心。中には女性もいる。というわけで、私も解体に参加させてもらった。何事も実際に体験してナンボである。

手渡されたのは、使い捨てのゴム手袋とカッターである。

え?カッターで切れるの?と思ったが、どうやらそれは私がカッターのポテンシャルをみくびっていたらしい。

皮を剥ぎ、内臓を取り、肉をバラしていくというのが流れ。魚すら捌いたこともない人間だったが、意外とできてしまうものである。


家の庭に設置された鉄棒にヤギをぶら下げ、解体していく

解体中、肉体から生命の生温かさを感じた時は、一瞬ひるんでしまった。しかし、解体は文字通り肉体作業なので、特に何も感じず、淡々と手を動かしていくと、いつの間にか肉になっていたという具合である。

他のグループは、手順を誤ったのか胃を割いてしまい、消化中の草が吹き出てしまった。それすらも、アハハと笑いになってしまう、朗らかな解体現場である。


女性たちは、切り株のまな板上で、肉をさらに細かく分けていく。ヤギの所有者(購入者)には、取り分として2.2kg(なぜ2キロでなく2.2キロなのか尋ねたが、さあ?という回答)が分け与えられるというルールらしい。ヤギは1匹630リンギット(約3万円)で購入したと所有者の男性が教えてくれた。食べきれなかったり、余った場合は、近所の人にお裾分け。

それにしても、不思議な光景である。

閑静な住宅街の一角で、本格的な解体が繰り広げられていると誰が想像できるだろう。そこから数分歩けば、私が住む自宅があり日常がある。そして、解体現場からは、高層マンションそして、ビジネス街が見渡せる。


閑静な住宅街で執り行われる解体

目の前で起きていることと、周りの光景がマッチングしない。しかし、それこそがマレーシアの犠牲際なのだと思う。多くのアラブ諸国では、衛生上の問題により、住宅街での解体は禁止されているケースも多い。決められた区画のみでの屠殺や、屠殺場での厳しい衛生ルールが設けていたりもする。これがさらに進むと日本のように、屠殺は日常風景から消え、消費者はスーパーのお肉しか見ない、という状況になるのだろう。

マレーシアには、犠牲際の原始的な風景が広がっている。そして、本来の祭りのあり方を教えてくれるのだ。

解体で疲れたので帰ろうとすると、

「お昼も食べて行きなよー」

ということで、一旦自宅に戻り、再び解体現場へとお邪魔した。先ほどのヤギ肉はスープになるらしい。まだ煮込みに時間がかかるということで、再び別で用意されたビュッフェ形式のランチをいただく。


巨大なべでスープを調理中

家の中で食べていいよーというので、家の中に入るものの、テーブルや椅子はすでに占領されており、床で食べるスタイルになった。その周辺には、ジモティーたちが思い思いにくつろいでいたり、赤ちゃんが放置されていたりする。


勝手に人ん家に上がり込んでみたものの、ガイジーンが来たと湧き立つこともなく、皆スルーである。

見知らぬ異邦人が、大事な赤ちゃんの横でくっちゃべっていても、誰も何も気にしていない。完全に家の中に溶け込んでしまっている。

なんだこの空間・・・

必要以上に気を遣ったりするわけでもなく、ただあるものを自然に受け入れる。彼らは、瞬間を生きている。これがマレーシアのすごいところである。

解体現場は、女性たちが手際良く洗浄し、解体の様子は跡形もなく消え去っていた。

最後に、先ほど解体したお肉で作ったスープをいただいた。臭みは全くなく、お肉もほろほろ。おすすめされたケチャップ・サンバル(辛いソース)を入れると、さらに旨みが増す。極上のテールスープである。

思えば不思議な祭りだった。祈り、生贄の命をいただき、仲間と解体し、そしてその肉をみんなでいただく。自然の摂理をあるがままに受け止める。これまでに味わったことのない、祭りの本質を見たような気がした。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。

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