登山が始まって数日は、初めての”登山”にきゃっきゃしていたが、4日もすると違和感を抱き始めるようになった。
これ、思ってた登山となんか違う・・・
過酷すぎる労働環境
「キリマンジャロ登山」という聞こえはいいが、やっていることはそうでもないのである。キリマンジャロに登り始めて、我々がやっていることといえば、5キロ程度のザックを背負って歩くぐらいのことである。
そう、文字通り歩いているだけなのである。
キリマンジャロでは、登山客が先にキャンプ地を出発する。ポーターたちが荷物を撤収して、後から追いかけてくるのだが、だいたいキャンプ地から2キロほどの場所で、ポーター全員に抜かれてしまう。
バランコキャンプ周辺には、キリマンジャロ山にしか生えないジャイアントセネシオが多く自生している。
異世界感を醸し出す植物たち
こうしてポーターたちは、次のキャンプ地へ一足先につき、再び我々のテントをはり、食事を用意してくれたりするのだ。ポーター=登山の荷物を持ってくれる人、というイメージしかなかったが、ナマで彼らの働きぶりを見た日には、驚愕である。
ポーターは、我々のような登山用具をフルで装着しているわけではない。山に行くん?と聞くたくなるほど、ラフな格好の人もいる。他のグループに付いているポーターの中には、スニーカーを履いている人もいた。大学生がよくおしゃれだと思って履いているやつである。
そして驚愕すべきは、彼らが運ぶ荷物の量。ズタ袋に入れた荷物は20~30キロになると言う。それを頭にのせ、急な斜面や崖をさっそうと歩いていく。
正直言って、過酷すぎる。江戸時代の農民でのやらないような使役である。
ここからは、キリマンジャロの鉄人こと、ポーターたちの勇姿を紹介しよう。
バランコから次へのキャンプには、急な斜面を登っていく。登山客よりも2,3倍重い荷物を持っているにも関わらず。彼らの歩くペースはこれまた2、3倍早い。
ポーター(左)と筆者(右)。足元を見ると、ポーターは普通の運動靴をはいている。ポーターは、トレッキングポールは使わない。登山客は己の荷物を持つだけだが、ポーターは十分とは言えない装備に、重たい荷物を持っている。
滑りやすい上に急斜面。いつケガをしてもおかしくない。いつもは颯爽と歩いているポーターたちも、ここは慎重に進んで行った。
そんな彼らを見ながら、私は申し訳ない気持ちになった。私が登山しているがゆえに、彼らもこんな使役をせにゃいかんのである。本来なら自分で全部持って登れよ、という話である。
しかし、彼らにとってはこうして物好きの外国人が山に登ることで、収入を得ることができるのである。ポーターやガイドたちは、過酷な仕事でありながらも常に朗らかでホスピタリティにあふれていた。
不気味である。
あんなに辛そうな仕事をしながら、なぜ彼らはあんなに穏やかでいられるのだ。キリマンジャロにやってくる登山客は一様に、ポーターたちの優しさについて言及する。それほどに、特異なことである。
「山に登るのは大変な仕事だのに、なぜポーターたちは、いつもあんなにニコニコ、穏やかなのだ!?」と、ガイドのヴィクターやチョンガに聞いた。
「ここでは外国人たちが観光に来ることで、ジモティーの収入に直結する。みんな、それを分かっとるさかい。登山ガイドや観光業の学校でも、必ずそれを教えられるんや」
観光客が来ることで収入を得られるとはいえ、ポーターの給料は、その内容に見合うものではない。
けれども、他に選択肢がないのだ。他に仕事があれば、こんな辛い仕事なんてさっさと辞めているはずだ。実際に、とあるポーターは「こんなつれえ仕事、マジで辞めてえわ」とぼやいていた。彼らは、生活のために仕方なく山へ登るしかないのである。
ガイドはこのように積極的に登山客のカメラマン役を務める。登山客が撮りたそうなポイントをしっかりとおさえている。
登山とはいえ、食事やテントの設営はすべて素晴らしきポーターたちがやってくれる。おまけに朝は、「朝ですよ〜起きてくださ〜い」とモーニングコールをするウェイターまでいる。常に歩くペースを管理し、水を飲むタイミングを指示してくれる、懇切丁寧なガイドがいつもそばにいる。
だからこそ、登山客は歩くことに集中できる。ずいぶんと快適な登山だが、私にとってはどこか大名行列の神輿に乗っているような感覚になるのであった。
登山かハイキングか
登山初日からひっかかっていたことがある。
それがキリマンジャロは”登山”なのか”ハイキング”なのかと言う疑問。
日本語ではキリマンジャロは”登山”である。ハイキングはどちらかというと、標高がそれほど高くない山を自然散策やちょっとした運動として、気軽にやるもんというイメージがあった。
しかし、英語ではキリマンジャロ登山は”ハイキング”扱いになるらしい。登山前に出会ったジェームス教授やメガネっ子も”climb”(登る)ではなく”hike”(ハイキングする)という単語を使っていた。
シッダルタに、その違いを聞くと、”climbing(登山)”は高度な登山技術を必要とする場合に使うのだという。エヴェレストの雪山を道具を使って登るあのイメージである。
そうか。キリマンジャロはハイキングか。
私の中でキリマンジャロ登山が、ハイキングに降格してしまった瞬間だった。
いや、単に言葉の定義の問題ではあるが、ハイキングと言ったら、高尾山に登るのと変わらない。キリマンジャロに登山する!といえば、おおっと周りは思うだろう。一方で、キリマンジャロでハイキングするよ〜と言うと、なんだか牧歌的なアクティビティになる。
実際、キリマンジャロ登山はそれほど難しくないと言われている。特殊な登山技術は必要ないし、登山客はひたすら歩くだけだ。だからこそ、私のような初心者でも挑戦できるのだ。
キリマンジャロ登山は、少なからず私にとってちょっとした挑戦の意味合いもあった。アフリカ大陸最高峰に挑むなんて、インドア派な私からすれば、たいそれたことである。
しかし、重労働をしながら山へ登るポーターたちや、仕事で100回以上もキリマンジャロに登っているチョンガやヴィクターを見ていると、自分のキリマンジャロ登山の挑戦なんか無と化してしまうのである。
我々はキリマンジャロに一度登っただけで、すごいことをした気分になる。登山客が発信する感動的な頂上での写真や映像が、キリマンジャロ登山をより幻想的なものにする。
けれども、冷静に考えて見ればキリマンジャロに100回以上登ったり、クソ重い荷物を持って登山している連中の方が、すごすぎやしないか。本当にすごいのは、こうした物言わぬ影の立役者なのではないか、と思った。
そんなわけで、もはやキリマンジャロに登頂することは、自分の中ではさしてすごいことではなくなってしまったのである。むしろ、これだけサポートしてもらっているのだから、登れて当たり前じゃん?とすら考えていた。
トイレするのが申し訳ねい
申し訳なさついでに、もう1つトイレの話をしておこう。登山記録なのに、やたらとトイレについて語っているような気がするのは、気のせいだろうか。
登山中は、共同トイレではなく、我々専用のポータブルトイレを使っていた。神輿に乗っている我々は、そこでトイレを済ますだけでいい。けれども現実には、キャンプ地を移動する度に、溜まった我々のブツを処理するトイレ専用のポーターがいるのだ。そして、彼は最初から最後までそのトイレを運ぶポーターなのである。
自分のブツを他人に処理してもらうという、後ろめたさはある。それにブツはタンクに溜まっていくので、他の2人に「あ、あいつ大の方をしたな」とニオイでバレてしまう可能性もなくはない。
あらゆる可能性を鑑みた上で、私は途中からトイレで排泄するのをやめた。他人に処理させるぐらいなら、野で放った方がましや。そんなわけで、大金をはたいてトイレを借りたにも関わらず、途中から野グソを決行することにした。
これが結構ドキドキするのである。まずは良さげな野グソポイントを見つけることから始まる。キャンプ地からあまり遠すぎるのも困る。近場だと人の視線に入ってしまう。よって、遠すぎず近すぎない場所で、人の視線からうまく隠れる場所を選定するのである。
この時もまた、「いかにも野グソポイントを偵察している」と周辺の人間に思われたら失敗である。自然を愛するネイチャーピーポーが、朝早く目覚めてしまい手持ち無沙汰なので、その辺を探索しているという体を装わなければならない。
場所を選定したら、食事処のテントへ行き、早めに朝食を食べ始める。ちょうどいいお通じを引き起こすために、コーヒーの量も調節する。そして体からゴーサインが出たら、シッダルタとナスリンに、野グソに行くことを悟られずにテントから退出する。「トイレなんて行きませんよ」という顔をして、立ち去るのがポイントである。
野グソは快適だ。それは見た目の開放感ではない。他人に自分のブツを処理してもらう、という恥ずかしさから解放されるからだ。
私がこうしたところで、他の2人が普通にトイレで大をしたら、結局トイレポーターは、他人のブツを見てしまうことになる。いや、それでも、処理する量は少ない方がいいに決まってると自分に言い聞かせる。まあ、単なる自己マンである。
それにしても、他の登山客はどんな思いでトイレをしているのだろう。ナスリンやシッダルタとは、ざっくばらんにいろんなことを話してきたが、流石にトイレについては聞けなかった。
そんなことを考えながら、登山4日目に我々が到着したのは、標高4,640メートルのバラフキャンプである。いよいよ、明日は、頂上へ向けて歩き出す。