めまい、吐き気、頭痛。高山病がついに襲来。そして分裂する登山隊 | キリマンジャロ登山(3)

標高3,900メートル地点のシラ2キャンプで、目を覚ます。目覚めと同時に襲ってきたのは、吐き気、頭痛、めまいの高山病トリプルアタックであった。

高山病、襲来

これが恐れていた高山病というやつか。頭痛だけならまだしも、吐き気やめまいに襲われては、登山は不可能だ。

高山病対策として「ダイアモックス」という薬がある。けれども、薬は万能ではなく、あくまでも症状を和らげるもので、副作用もある。

そうした懸念から私は、「まあ、薬を飲まなくても平気っしょ」ということで、ダイアモックスを持参しなかった。けれども、実際に高山病に襲われてみると一瞬でさえも、気が滅入る。登山どころじゃねい!これは意地を張っている場合じゃない。

というわけで、朝食後にダイアモックスを持っているシッダルタに泣きつき、薬を分けてもらうことに成功した。

ダイアモックスは、1錠を半錠にわけ、午前と午後に服用する。利尿作用という副作用があるが、高山病を患うよりは全然マシだった。

吐き気や頭痛は治まったが、今度は終始眠気に襲われた。登山しているのに眠い。眠気も高山病の症状らしいが、眠気はそれほど害がないので、遊ばせておこう。

キリマンジャロ
シラ2キャンプから見えたキリマンジャロの雪山。山の天気はとにかく変わりやすい。曇り、快晴、雨といった天気がヘビーローテーションする。シャッターチャンスがめぐってきたらすぐに写真をとった方がいい。10分後には全く違う光景になっている。

この日は、高地順応のため標高4,640m地点にあるラヴァタワーまで登り、3,960m地点のバランコキャンプへと下る。

この辺りから、グループ内のペースにバラつきが出始める。ナスリンは、ダイアモックスを服用したが、朝から吐き気がおさまらないらしく、なかなか前に進めない。顔つきも悪い。

よってここは2手に分かれ、症状がほぼない私とシッダルタが先行することになった。

シッダルタはやたらとしゃべる。フランスやイギリスで、スポーツブランドのビジネスを並び、2つの修士を取得したことや、現在はハイデラバードでスポーツ用品関連のビジネスをするかたわら、ジョージアに不動産を購入し民泊ビジネスを運営していることなど。

ラジオのように延々と話し続ける。

世界各地を旅行しまくっているようで、口を開けば各国の旅行話が次々と飛び出してくる。グアテマラで山に登ろうとしたところ、銃撃戦に出くわし財産すべてとパスポートを失った話や、アイスランドやノルウェーのハイキングで出会った人々の話など。そうした話を聞くたびに、ずいぶんと知らない世界があるのだと気づかされる。

ラヴァタワー
標高4,640m地点のラヴァタワー。ここでランチがてら2時間ほど過ごし、再び山を下る。この数時間で高度順応ができたのかは謎である。

山の天気は相変わらずヘビーローテーションで変わる。雨季ということもあって、辺りは雲や霧におおわれてひたすら真っ白である。写真をとっても、ボワっとした感じになる。よって景色を期待するのであれば、雨季は避けた方がよいだろう。

不穏な空気

シッダルタと私は、予定では3時間かかるはずだった道のりを1時間半で終了し、食事処テントでナスリンの到着を待った。30分ほどしてナスリンはやってきた。

登山グループの分裂は、珍しいことではない。だいたい大勢のグループにもなると、だいたい1~2人ぐらいは、ペースが遅れている人を見かける。グループが分裂した場合を見越して、ガイドもグループ人数によって十分な人数が割り当てられる。

先にラヴァタワーにたどり着いた私とシッダルタの2人は、特に何も感じなかったが、ナスリンは一人置いてけぼりを食らったように感じたのかもしれない。やや、不穏な空気が我々の間に流れ始めた。

メンバーのペースが少しずつ乱れることで、明後日に迫った頂上アタックへの不安も増す。と言っても、主に不安を抱えていたのはナスリンである。

私は、あまり自分が頂上まで行けるかどうかは考えないようにしていた。ただ、一歩ずつ目の前を歩いていくだけである。登頂できたら嬉しいけど、できなくてもいい。なにせ初めての登山なのだ。最後までやみるまで分からない、というスタンスである。

一方のナスリンは思いつめるクセがあるようで、キリマンジャロ初日からずっと登頂できるだろうか、とぼやいているのである。

聞けば、ナスリンにとってこのキリマンジャロ登山は数年越しの夢だったという。夢がかかっている人間にとっては、登頂できるか否かは重要なことである。そんな人間を前に、2週間前に思いつきでキリマンジャロ登山を決めて、のこのこやってきたとは、流石に言えなかった。

とはいえ、登頂できるかはやってみるまで誰にも分からない。とにかくお互いに「大丈夫。そんなに考えすぎない方がいいよ」だとか「3人で一緒に登頂したいね☆」と言った、当たり障りのない言葉をかけ続けるしかなかったのである。

登山中のお楽しみ

ベトナム戦争でしのいだ先日に比べれば、3日目はずいぶんと楽なものだった。この日は余裕を持って、午後3時頃には次の目的地、バランコキャンプに着くことができた。

のちに判明したが、2日目のコースは16.5キロあり、本来であれば2日かけて突破するところだったらしい。レモショルートは本来ならば7日8泊が定番なのだが、なぜか我々の場合は6日7泊になっていたのである。この1日の違いは大きい。日数によって登頂率が異なるのもうなずけた。

キャンプ地に着くと毎回、管理事務所にある名簿リストに、名前や年齢、国名、職業、ガイド名などを記入する。個人情報がかなり流出していることが気になるが、まあよい。


キャンプ地の記帳ノート。登山客の個人情報がつまっている。

この名簿リストをみるのが、登山中は密かなお楽しみであった。登山客がどの国から来ているのか、何歳ぐらいの人がきているのか、何人できているのか、最年長、最年少の登山客を探すのだ。

大半の登山客は、イギリス、ドイツ、アメリカからだった。インドから来た14歳の少年からドイツの76歳のおじいちゃんまでと、年齢もバラバラである。ちなみにキリマンジャロ登頂の最年少記録は6歳、最高齢は85歳でいずれもアメリカ人である。

登山者の条件

登山中に我々は、どんな客が登山者としてやってくるのか?という質問をガイドたちにぶつけた。インドやチュニジアは珍しい国になるらしい。15年ガイドをやっているチュンガだが、チュニジアからの登山客はナスリンが初めてだという。

オイルマネーで小金持ちになった湾岸諸国や、徴兵終わりの気分転換で大勢の若者が旅するイスラエルを除けば、中東の人々が旅行をすること自体めずらしい。経済的な理由もあるが、女が1人で旅行するなんて・・・という価値観もまだあるからだろう。

キリマンジャロにやって来るぐらいだから、ナスリンのスペックは一般的な中東の人々とは少し違った。

チュニジアはアラブ諸国の中では、女性の社会進出がもっとも進んでいる国の1つである。2011年に起こった民主化を求める「アラブの春」も、チュニジアから始まった。アラブの中では中々なエリート国家である。

そんな国でナスリンは、某有名コンサルタント会社で働いているという。イスラーム教徒であるが、「一応ムスリムだけど、そこまで熱心に信仰してない」と、すっかり世俗化している。

登ってみて初めて気づいたが、登山するにはそれなりの資金力や体力がいる。そして山を登ることに意義を見出す価値観が必要となる。マラソンやランニングと同じく、そこそこ豊かな環境や社会の娯楽と言えよう。登山客にアメリカやヨーロッパの国が多いのもそのせいだろう。

ランニングと登山は、走り続けたり、高い山に登ってみるという一見すると理解しがたい行為に、意義を見出す高度な精神が必要という点では同じだが、資金力に置いて大きく違う。

なにせ登山は、やたらとお金がかかる。キリマンジャロ登山後、調子に乗った私は、軽い気持ちで登山を始めようと思った。しかし、よく調べると高価な道具が必要だとか、山へいくにも時間と金がかかるということが分かったので、早々にあきらめてしまった。

山を登る人は嫌がるかもしれないが、私からすれば登山はゴルフや乗馬のように、お金を持っている人のためのアクティビティな気がしてならない。

とは言え、お金だけあれば登山は楽しめるとも限らない。忍耐力も必要だ。

経済的に豊かな湾岸諸国からやってきた人々の中には、辛いわ〜という理由で途中で帰ってしまうグループもいたらしい。

彼らは、意図せずして石油という魔法で裕福な国民と成り上がってしまった。だから、汗水垂らして働くとか頑張って勉強するといった価値観を持ち合わせていない。要は堪え性がないのである。

もちろんみんながそういうわけじゃない。中にはきちっと登頂して下山するUAEやカタールからのグループもいた。

「タンザニアだって、みんなが登山という行為を理解しているわけじゃない。なんで外国人が山なんかに登るんだ?やつらは山にあるお宝を狙っているんじゃないか?そんな風に考える連中もいるんだ」と、ガイドのチョンガはいう。

一方のヴィクターも、登山ガイドの仕事を家族に理解してもらうまでには、時間がかかったという。登山ガイドをする前は、教師として働いており、登山ガイドに転職するときには、「なんや、登山ガイドて。大して給料も入らんとちゃうん?せっかく教師のなったのに」などと大反対にあったらしい。

チョンガによれば、日本人の登山客もよく来るとのことだったが、「日本人の登山客はシニアが多いのは何でや?」と逆に聞かれる。確かに名簿リストで見つけた日本人の半数は、40~60代であった。

日本の働き世代は忙しい。有給だって簡単に取れるものではない。ところがどっこい、リタイアをしてしまえば、時間も金もある。他の国のシニアに比べれば、日本のシニアは体力もある方だろう。日本では、シニアの方が生き生きしているように思うのは、気のせいだろうか。

こんな風に、いろんなお国の事情が垣間見れるのが、山の名簿リストなのである。

登山後のリラックスタイム

標高が上がるにつれ、別ルートからやってきた登山客とキャンプ地で合流することになる。初日のキャンプ地では、たった3組しかいなかったのに、頂上へ近くにつれキャンプ地もにぎやかになる。

オフシーズンの3月でこれなのだから、繁忙期はもっと人であふれかえるのだろう。

我々がひーこら言いながらキャンプ地に着く頃には、すべてがそろっている。熟練ポーターたちが、我々を追い抜いて先にキャンプ地へつき、準備をしてくれるからである。

数時間に及ぶ登山を終えた我々は「あ〜疲れた!」といって、まるで自宅に帰るかのように、用意された寝床用のテントに潜り込むだけである。

5分後には、ポーターが洗面器に入れた熱いお湯を持ってきてくれる。手を洗ったりするものなのだろうが、私は終始、足をつっこんで足湯をしていた。雄大なキリマンジャロを眺めながら、酷使した足の疲れがお湯に溶け出していく。なんとも言えない極楽な時間であった。

山での贅沢な食事

山のご飯は思った以上に、贅沢なものだった。食事処のテントは別に用意され、テントの中にはテーブルと4人がけのイスがセットされてある。

アフリカンなテーブルクロスの上には、インスタントコーヒーやキリマンジャロティー、ミロ、ケチャップ、はちみつが置かれている。ちょっとした食堂である。

我々が席につくと、ウェイターが恭しく、熱いお湯が入ったポットを持ってくる。お湯ではなく、しょうが湯の時もあった。冷えた体をまずは温かい飲み物で温める。そして、スープやメインディッシュのパスタ、チキン、ご飯なんかが運ばれてくる。

キリマンジャロでの食事
キリマンジャロでの優雅な食事

キリマンジャロ登山の食事
メニューは毎日微妙に違う。食べきれないほど十分な量だった。

ただでさえ、ご飯が出てくることでもありがたいのに、時々シェフがやってきて「食べたいものはないか?料理の味はどうか?」などと気遣ってくれる。ちなみにこのシェフは、キリマンジャロに100回も登頂したことがあるスーパーシェフであった。

夕食まで時間があるときは、つなぎのおやつとして、ポップコーンが出てくることもあった。

こんなに贅沢でいいのかね?

キャンプについたらテントも張ってあるし、何もしなくとも美味しい料理が出てくる。なんともゴージャスな生活だ。

しかし、このあたりから、山へ登ることの違和感を覚え始めるのである。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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