ラマダン前はなにかと心配がつきなかった。
断食をしながら通常通りの仕事がこなせるのか。断食をすることで、仕事の効率が落ちるんじゃないか。そうまでしても、断食をすべきなのだろうか。
断食よりもさらに恐怖だったのは、ラマダン中は午前3時起床ということ。普段は夢の中なので、まったくもって用事のない時間帯である。そんな時間にバッと起きて、断食前の水分補給をし再び寝る。
極めつきは、ストップ!朝のお目覚めコーヒーである。コーヒーは喉が乾きやすいので断食中にはむいていない。
いや、まったくもってNGというわけではないが、断食経験者たちがこぞってコーヒーの摂取量を減らしているのを目の当たりにすると、未経験の断食初心者は恐怖に煽られる。
もしもこの時期にラマダンセミナーなどという高額セミナーがあったとしたら、きっと私は参加していただろう。わからない、やったことがないという未知の恐怖にかられると人間は、普通に考えれば異常な額の金を払ってまで、何かにすがりつきたくなるらしい。
朝のリーマンにコーヒーがない世界など考えられようか。スタバのコーヒーもワンダ・モーニングショットもないのだ。そこには暗黒の朝が広がっているに違いない。ここではじめて自分がコーヒー中毒だということに気づいた。
仕事だけじゃない。断食で日中は省エネ対応で動かなければいけないから、断食明け前に日差しが強い街をウロウロするなんてほぼ自傷行為である。
就業時間の短縮で早く家に帰れるとはいえども、引き続き日没までは断食中なので、クリエイティブ&プロダクティブなことなんかできるわけない。
おまけにイギリス人上司からはラマダン中は効率が落ちるのを前提で、「ラマダンが始まる前にこれ頼むよ」などと言われる始末である。
効率を落としてまでも断食に参加すべきなのか。断食をしても、ちゃんと仕事の指示が出せるのか、報告ができるのか。数値分析ができるのか、うんぬん。
仕事においての好物は「効率」と「改善」な私が、それを捻じ曲げてまで、この断食に参加するのはためらいがあった。仕事の効率を落としてまで、宗教のお勤めを優先することなどあってよいのだろうか。どこかでそれを容認できない自分がいた。
「断食するの〜?」
「いや、前はやってたけど、やっぱ能率が悪くなるし、仕事に響くからやってないよ」
ぎくり。ラマダン前のムスリム同僚の会話に動揺する。信仰よりも仕事を優先。とりわけ仕事ができる同僚だから余計に刺さる。
この過程を経てはじめて、自分が効率を優先する価値観に重きを置いている、ということを改めて認識するようになった。
ラマダン中は、すべてのものごとがスローテンポになる。日中の活気のなさをみると、停滞にすら見える。去年までは、断食中の同僚たちが一様に眠たそうにあくびばかりするのが、少々気になっていた。そこまでして断食を行う必要があるのかね?と。
けれども、大半のムスリムにとって大事なのは、仕事よりもムスリムとしてのお勤め。彼らにとっては自明の理だ。
最近では、多様性ウェルカム!などといって寛容性をチョイ見せするようになった日本社会でも、理解しがたいだろう。
おそらく、それは日本社会だけではない。おおよその近代化した社会においては、人間の都合よりも利潤の追求や効率性を重視しているはずだ。
実際に断食を行ってみて感じたのは、仕事とか効率性が第一優先じゃなくても、いいじゃん?ということである。断食をしつつも結構通常通りに仕事ができたりする。いや、むしろ頭脳作業であればいつもより、さえているのだ。
断食をすると効率が落ちる、これはやったことがない人間の先入観ともいえよう。ちなみに断食そのものというよりも、深夜まで起きている、睡眠時間が短くなる、といった影響の方が強いといえる。
1ヶ月くらい、仕事が停滞したってどうってことはない。生産性が落ちても、別に死ぬわけじゃない。ひたすら利潤を追求する社会からすれば、許しがたいことなのかもしれないけど。
もしかしたら、「効率中毒」に侵されていたのではないかと今では思う。あえて「効率」を追求しない動きや価値観も悪くない。そう思えるようになった。
マンガでゆるく読めるイスラーム
普通の日本人がムスリム女性と暮らしてみたらどうなる?「次にくるマンガ大賞」や「このマンガがすごい!」などでも取り上げられた話題のフィクション漫画「サトコとナダ」。