やっとラマダンが始まった。ラマダンが始まる前は、日中は食事ができないという恐怖から、「食える時に食っとけ!」という精神で過食気味になるなど、何かとストレスを感じることが多かった。
しかし、ラマダンが始まってしまえば、そんなストレスとはさらばである。
断食を始めるのは、夜明けの礼拝が始まってからである。この時期のUAEの場合、午前4時頃に始まる。よって、少なくとも3時半には起きておかなければならない。
なぜか。
このチャンスを逃せば、日没まで飲み食いができないからだ。もちろん、水を飲むことも許されない。
深夜に起きれるか不安だったが、水分補給が許される最後のタイミングということもあり、なんとか起きることができた。やはり、人間は切羽詰まると普段できないことができてしまうらしい。
普段通り職場へ行くが、なんとなくスローテンポ。初日ということもあってか、まだ断食が板についておらず、なんだか皆ソワソワしている。
そのため仕事もそこそこに、「ラマダン・カリーム」などとあいさつ回りをしてやり過ごす人が多発していた。「ラマダン・カリーム」とは、ラマダン中に交わされる挨拶のことで、「ラマダンおめでとう!」という意味である。
ラマダン中は、「仕事そっちのけ」が、結構まかり通ってしまう時期でもある。
当初、予測していたような「喉が渇きすぎて死ぬ!」、「腹が減って苦しい!」というものは意外に感じなかった。むしろ、ひたすら口寂しくなる。
普段、何気に口に入れていた水や食べ物を一切遮断することで、時間がなんだかぽっかり空いた感覚に陥る。口の辺りがヒマになるのだ。
ラマダン中は、就業時間が短縮されることもあって、早く帰ることができる。断食している人は、3時間短縮、断食していない人は2時間短縮である。これが1ヶ月ほど続く。
よってラマダン中はすべてがスローテンポになる。一応、働いてはいるのだが、同じ仕事をやるのにも通常より時間がかかる。断食しない人でも、この時期だけは断食している同僚に気を使い、隠れてこそこそとランチを食べたり、そもそもランチを食べなくなる人もいる。
早く帰れたとて食事ができるわけではないので、家でじっとやり過ごすことになる。何かをしようとしても、頭がぼーっとするので、集中できない。ただ、廃人のようの横たわっているしかないのである。
昨日までは自由に飲めた水も今では手が出せない。ペットボトルの水を恨めしく、こんなに凝視したことは、かつてなかっただろう。
何度も時計を見ては、「ちっ。あと日没まで3時間もある・・・」などと思うのである。
断食は、日没の礼拝とともに解除される。正確には礼拝を呼びかけるアザーンが流れれば、その時点で飲み食いが可能となる。
日没の時間が近づき、近所のモスクへ行くと、とんでもない人だかりができていた。
ラマダン中は、多くのモスクでイフタールと呼ばれる断食明けの食事が提供される。しかもタダ!そんなタダ飯をもらおうとする連中が、わんさか集まっていたのである。
モスク内でじっと合図を待つ。前日のようなフェス感はなく、人数もまばらであった。ようやくアザーンが始まったと思うと、おもむろにおばさんが「ほれ、これ食べんさい」とデーツを差し出した。1つだけつまむと、「遠慮せんと、もっとお取り!」と言われる始末である。
これが、断食明けにはじめて口にしたものだった。
ああ、これがラマダンなんだな。
神聖な月であるラマダンは、日中は普段の欲望を抑えるという実践をしつつ、食べ物やお金を寄付したり、食べ物をおすそ分けするといった善行も推奨される。ようは、いいことしましょう!と言う月なのである。
そうしたラマダンスピリットが、このデーツに凝縮されていたような気がした。
通常であれば、日没後の礼拝は、アザーンから5分後に始まるのだが、この日に限ってはなかなか始まらない。
様子がおかしいわ、何事?とおばさまたちが、1階の男性セクション(当モスクは男女で階が分かれている)の様子をチェックし始める。こちとら礼拝を済ませて、早く食事にありつきたいんだから、と少々イラついているようにも見える。
15分遅れで日没後の礼拝が開始した。どうやらイマーム(祈りを先導する人。この人なくして礼拝は始まらない)も、断食明けの水分補給をしていたと見えたる。
ついにやりきったのだ。15時間も飲まず食わず。まだ1日を終えただけだが、一種の達成感が込み上げた。
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