かつてない孤独に襲われている。これまで何度も高い孤独の波を乗り越えたが、今回ばかりは流石に飲み込まれてしまった。
海外のぼっちすぎる生活
知人もツテも全くないマレーシアに来て1年以上のことである。今だにまともに会話ができる知人すらいない。パートナーがいるわけでもなければ、子どもやペットもいるわけではない。
知り合いがゼロの場所に行くこと自体は、私にとっては問題ない。それに基本的には、友達が少ない&いなくてもOKな人間である。しかし問題なのは、社会とのつながりが全くゼロであるということだ。
マレーシア国外の仕事をフルリモートでしているため、マレーシア社会との接点がまず生まれない。今までのように会社で働いていれば自ずと人間関係ができたものの、今回ばかりは能動的に動かねば、人間関係すら構築できないのである。
かつての知り合いや家族との通信手段は、オンラインのみ。リアルで会話をすることがほとんどなくなる。この時点で、リアルで話をすることがどれだけ重要かを知る。オンラインでのやり取りは、補足的なものではあるが100%のコミュニケーションとしての代替とはならない。何度か現地のmeetupや会合にも参加してみたが、どうもハマらず長続きするものはなかった。
私が現地の英語訛りをうまく理解できないもの問題である。英語を話しているのだが、魔改造されたマングリッシュとの対戦では、もはや別の言語を交わしているような気がする。
ビザが取れたというしょぼい理由でマレーシアを選んだのも失敗だった。その国をもっと知ろうとかいう好奇心もない。もちろんそれなりに色んなものに手を出してみたが、心の底から楽しめるものは見つからなかった。唯一、マレーシアはイスラームの国という理由で選んでもみたが、中東・イスラーム世界に住んではや10年近く。もはや、アラブやイスラームは自分にとって日常であり、なんの違和感のないものになってしまった。
ジモティーと話していると、「なぜマレーシアに来たの?」だとか「マレーシアの好きな料理は?」などと聞かれる。その度に、私はマレーシアのことが好きなんだよう、という体で、取り繕った会話をしなければならない。それが相手にも申し訳ないし、自分でも辛い。
それに、もしかしたらこの国を早々に離れるかもしれない・・・という予感が、深い関係を持つことにためらいを持っているのも事実である。そして、まあ、短期間だろうし、友達いなくてもいっかというようなネグレクトに発展する。その結果がこの有様である。
自由に見える生活の裏で・・・
海外でフリーランスとして働き、一人で生活している。字面だけで見れば、聞こえはいい。好きなことをして自由な人生を歩んでいる、と思うだろう。しかし孤独すぎて、マレーシア全土で孤独を争う大会があれば、ぶっちぎりで1位になれる、などとつまんねえことすら考えてしまう。
自分の好きなことに時間を使え、安定した収入もある。苦手な人付き合いだってしなくていい。仕事だって自分のペースで進められる。社内政治を気にしたり、チームメンバーの嫌なやつとも付き合わなくてもいいのだ。それは会社員時代の私が、夢みた理想の生活だった。
マレーシアの暮らしは、むしろ良いものだった。プールもジムも住んでいるコンドミニアム内にあり、おまけにほとんど人がいないので、ほぼプライベートで使い放題だった。精神は病んでもおかしくないのに、無駄にジム通いや美容課金をせっせとしたおかげで、自分史上の最高ボティに仕上がり、体だけは一丁前に超健康体になっていたのである。まさしく刑務所の囚人である。孤独を紛らわすために、自分は北欧の人権に配慮した刑務所に住んでいるのだ、とすら思うこともあった。
孤独で自由な身だからこそよかったことと、悪かったことが多々ある。だから、一体何が理由で、こうなってしまったのか・・・それを何度考えても、うまく答えが出ない。だから、行きすぎた自由や孤独が自分を蝕んでいるということにすら、考えが及ばなかった。なぜなら、それはブラック労働のように、明らかな”害”ではなく、一見すると”無害”に見えるからである。しかし、その無害も行き過ぎれば、実は毒になるのだ。
そして私は気づけば、人肌恋しくて無駄にカフェや店に顔を出して課金してみたり、時には買い物中毒になってみたり、果ては無気力となって、何も楽しめず、廃人と化していくのだった。ただ筋トレだけは、無駄に続いている。
自由な生活、その先にあるもの
そんな時、スウェーデンに行くことになった。予習として、「The Swedish Theory of Love(スウェーデンの愛の理論)」というドキュメンタリーを見たのだが、このドキュメンタリーと私が抱える問題がなんと一致していたのである。
ドキュメンタリーは一部しか英語字幕がなかったので、あとはニュアンスでしかないのだが、ざっくりのべるとこんな感じだ。
世界でもトップクラスの自由な国と言われるスウェーデン。それを支えるのが、自由とハイパー個人主義的な考え方である。映画はこうした考えが、スウェーデン社会にどのような影響をもたらすのかを描いたもの。映画の中では、孤独死をした老人のケースも描かれている。テーマは自由と孤独といったところだろうか。
映画の最後に出てきた社会学者の言葉が痛いほど身にしみた。適当に走り書きをしたものを意訳したので、正確ではないかもしれないが。
幸せな人生というのは、問題がない人生ではなく、問題を乗り越えた時にある。
人と関わらない、問題がない生活は一見すると、幸せで快適に見えるかもしれないが、そうした生活では、人々が困難に対処するスキルが失われてしまうのも事実だ。問題は、人と関わる中でしか生まれない。
個人主義は、人付き合いのスキルを低下させ、他人と共存するための交渉能力を低下させる。オンラインとオフラインの世界はいわば2つの世界である。オンラインは断絶した世界、そしてオフラインは繋がりのある世界である。
独立した自由な生活は、幸せではない。むしろその逆であり、虚しく、無意味で想像を絶するほどの退屈である。すなわち個人主義というのは世間への無関心であり、世間からあなたに対する無関心でもある。
私は自由こそが幸せなのだ、と思って生きてきた。その結果、一人で生きていくスキルを身につけ、自分がやりたいことをやれる自由を得た。しかし、自由の果てで見たものは、決して期待していたものではなかったのだ。
世界は、自由=幸せみたいな言説があふれ返っている。自由な国世界ランキングなどといって、それがいかにも幸せランキングと同義のように扱われている。先のスウェーデンだって、自由、幸せな国の代名詞のように言われるが、私がみた限りそれほど人々が他の国と比べて幸せか、と言われればそうは見えなかった。そうした国でさえ、周りの人々を気にしたり、逆にそうした”自由主義”が人々を不幸にしている姿もあった。
その対岸にある家族主義や伝統主義が人々の生き方を蝕むこともある。世間の目を気にしたり、家族の口出しが煩わしく感じたり。そこでは自由は制限される。パキスタンでの生活はその好例だ。人と関わらなければ生きていけない。そこには人との距離が近すぎて煩わしいこともある。けれども、そこではかつてないほどの”生”を感じていた。それが幸せと呼べるのかはわからないが、少なくとも個人主義社会で感じる虚無感はなかった。
世界で最も住みにくい都市カラチでのパキスタン生活が過酷で辛すぎる
どちらの主義が良い、という問題ではない。そして、どちらも不完全で、完全なる正解はないのである。
孤独な生活を逃れるために
私なりに今までの生活を変えようと努力してみた。自分からほとんど連絡しない受身だったが、近況をこまめに周りの人々に報告し始めたり、ジャングルで見知らぬ人に挨拶がけを毎朝してみたり、そうすることで事態は好転していった。
しかし、即効薬としては、ただ日本に帰るだけでいいのだ。家族も友達もいる。もはや孤独と即手を切れる。それだけで、温かい人間の輪に入れるのだ。
ただそれが良いと分かっていても、それだけはできないのだ。日本に帰る勇気がない。孤独な海外の無理ゲー生活を強いられると分かっていても、それだけは手放せないのだ。