美女と酒と豚にあふれた不思議なイスラームの国、アゼルバイジャン探訪

コーカサス地方のカスピ海に面したアゼルバイジャン。

イスラーム教が多く住む国といわれながらも、そこは豚と美女と酒にあふれていた。

今回、私がアゼルバイジャンを選んだのは、イランと同じくイスラーム教のシーア派が圧倒的多数を占める国だったからだ。

同時に、アラブ圏ではない国で、どんな風に人々はイスラーム風な生活をしているのか、を見てみたかったのである。

酒とイチャつくカップルたち

結論から言えば、イスラーム教の人口が多いというのは、単なる統計上の数値にしか過ぎなかった。

数値の上では、アゼルバイジャン人口の97%がイスラーム教である。しかし、目の前に広がるアゼルバイジャンには、それを見いだすことができなかった。

なんだかすかしを食らった気分である。

日本人の70%が神道、60%が仏教を信仰していると公式に紹介されていても、現実には無宗教をのさばる日本と同じである。ちなみに合計が100%を超えているのでは?と思った方。日本では、「どっちか選べない〜」という欲張り精神で、神道と仏教の両方を信仰している人も多いため、重複が発生しているのだ。

せっかくイスラームの国だと思ってきたのに。詐欺被害者の心境である。

空港の入国審査からして、異常だ。なにせ、無駄に美女力が高い。街にある公園のベンチは、だいたいおっさんか、いちゃいちゃするカップルで埋まっていた。

レストランに行けば、どの店もお酒が飲めるのは当たり前。ワインやビールがこれでもか!という安さで飲める。イスラームの戒律にのっとった「ハラール・フード」などという概念を見いだすことはできない。


スーパーで売られていた酒とハム。イスラーム圏ではお目にかかれない珍物ゆえ業が深い。

ベールをぬぎすてた国

長い髪をふさあ、とかき上げながら道を行く女性たち。もともとソ連圏だったこともあってか、女性は、ロシア系の金髪美女みたいな人も多い。もちろん女性は、アバヤやスカーフなんぞはつけておらず、服装は日本と変わらない。


アゼルバイジャン美女におしゃれな街。今を楽しんでいる

街にはH&Mからディオールまで、グローバルブランドがあふれている。心なしか、みな小綺麗にして、おしゃれに見えるのだ。

日本では当たり前の光景だが、これを新鮮と感じるあたり、自分はもっさい場所からやってきたのだなあ、と実感する。

なにせドバイの日常生活は労働者であふれている。人口構成的に20~30代男性が圧倒的に多く、おしゃれ盛りの若い女子は少ない。

通勤時間帯のメトロには、勤務先の制服を着て出勤する、働き盛りのフィリピーノで溢れている。おしゃれもへったくれもない、黒いアバヤ姿も街に馴染んでいる。

街も人もこじゃれたなりをしているけども、アゼルバイジャンの人々は親切だ。その親切レベルは、イランとも引けをとらない。もしイランがベールを脱いだら、こんな感じなのだろう。

取り残されたモスク

イスラーム教を象徴するモスクも、首都バクーではあまりみかけなかった。礼拝の時間になっても、街中からアザーンがサイレンのように聞こえてくることはない。

モスクはソ連時代前に作られた古びたものばかり。そのほとんどは、実用性を失っており、観光スポットと化していた。その中でも、ギリ現役で活躍していたのが、旧市街にある「金曜モスク」。


旧市街の金曜モスク

モスク前でじっとたたずんでいると、モスクの番人と見える男が、「入ってええで」と自ら案内役をかってでた。


シーア派は、祈りの際に「モフル」と呼ばれる小道具を使う

男は親切にも無料のモスクツアーを始める。モスクの歴史、そしてモスク内の装飾など。

己の英語が拙いからということで、アラビア語に切り替えた。男が話していたのは書き言葉のフスハーだった。通常、アラブ諸国の人々が話すのは、話し言葉のアンミーヤ。書き言葉とはまったく違う。

この辺については、別記事を参照に。

アラビア語学習の葛藤【イスラム教徒はつらいよ】

アラビア語を勉強したくない理由

イスラーム教徒にとっては、アラビア語履修は必須。よって、アラブ話者が少ない国では、話し言葉を習得する機会はないので、書き言葉を話すしかないらしい。

私も、いまだ書き言葉しか話せずにいる。妙に、この男に親近感を抱いた。

どこもかしこも豚だらけ。豚ワールド

アゼルバイジャンの街中には豚が溢れていた。「ブタ・マーケット」、「ブタ・ホテル」など。さらに、アゼルバイジャンのLCC航空は「ブタ航空」という名前までついている。

ブタ三昧なのだ。

もちろん「ブタ」というのは、豚ではない。アゼルバイジャン語では、ペイズリー柄のような勾玉模様をさす言葉である。

ペイズリーという言葉が世界に定着される以前は、各地で様々な呼び名があった。「ブタ」もその1つである。現在、アゼルバイジャンで「ブタ」と呼ばれる勾玉模様は、国のシンボルなどにもなっている。

ペイズリー柄に関して、国際政治学者の高橋氏は、氏のブログで興味深い事実を語っていた。

カシミアのショールの勾玉模様も世界に広がった。古代ペルシアなどで広く使われていた勾玉模様が、ペルシアからインドへ、インドのカシミールからヨーロッパへ伝わった。イギリスのインド支配の副産物だ。

大量の勾玉模様の衣類が生産され、世界に輸出されることとなった。生産と輸出の中心地はイギリスのスコットランドのペイズリーという都市で、スコットランドの大工業都市・グラスゴーの南にある。

そのせいで、勾玉模様はペーズレーという名称でも言及されることとなった。ネクタイなどにもよく使われているデザインである。

我々がヨーロッパのものだと思い込んでいるものが、実は別の地域が発祥だった、という事例の1つである。

その他にもある。香水やコーヒー。

香水を作る蒸留法はもともとイスラーム社会で発達し、それを十字軍がヨーロッパへ持ち帰った。今でもイランは、バラを蒸留したバラ水を作っていることで有名で、現地では昔ながらの蒸留法を見ることができる。

知られざる美しきイラン。バラ香るローズ・フェスティバルを訪ねて

コーヒーの発祥地はイエメンかエチオピアと言われており、当時はコーヒー貿易の利益を独占するために、他の地域で発芽しないよう、煎った状態のコーヒー豆のみを輸出していた。

しかし、メッカを訪れたインド人巡礼者が、コーヒーの生豆を持ち出すことに成功。以後、インドからヨーロッパを経て、世界中の植民地で栽培されるようになったのである。

ちなみに中国で、勾玉文様は、「豚のハム」を意味する「火腿紋」と呼ばれている。あながち勾玉模様と「豚」は遠からずなのかもしれない。

酒も公の場で飲め、ブタが蔓延するこの国は一体。

イスラームが消えた理由

その理由は、国の方針にあった。

アゼルバイジャンは、政教分離を原則とする世俗国家である。

一方でサウジアラビアやUAE、イランは世俗国家ではなく、国の法律にイスラーム法が適用されている。ちなみに中東の国に世俗化している国は、トルコをのぞけばほとんどない。


イスラーム教徒人口が多い国の世俗度を示したもの(Wikipediaより)。緑が世俗国家、反対に赤はシャーリア法を適応するガチガチのイスラム国家。

アゼルバイジャンにイスラームが広まったのは約7世紀頃だと言われている。その後、1920年にアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国として、旧ソ連の一部となる。

その間、アラビア語が廃止され、ロシア語教育が普及。宗教政策の一環として、脱イスラーム化が推進され世俗化した。

現在、アゼルバイジャンには、アゼルバイジャン語なるオリジナルの言語が存在しており、アゼルバイジャン人としてのアイデンティティー形成に一役かっている。

何気におしゃれなバクーの街並み

世俗化して、成長発展の途中にあるバクーは、憑き物がとれたかのように、こざっぱりとしている。イスラームという宗教をかぶった街にはない、清々しさがどことなくある。

人もこじゃれていれば、街もまたこじゃれているのだ。


バクーの中心地


街中に点在するキオスク。なぜか大量にピンクの綿あめを販売しているのが、ポイント

イスラーム教は過去のもの?

ソ連の支配でイスラームは押し流され、ソ連解体によりアゼルバイジャンとしての独自のアイデンティティを追求するようになった。そのアイデンティティは、もはやイスラーム教には依拠しないものである。

どうやら、アゼルバイジャンにとってイスラーム教は、過去の支配者がもたらした産物にしか過ぎないらしい。

ひっそりと一部の人は、信仰を続けているが、それもわずかだ。どうやらアゼルバイジャンをイスラーム教の国、というのはお門違いだったのかもしれない。

アゼルバイジャンについてもっと知るなら

アゼルバイジャンだけを取り上げた旅行本はまだない。そんな中、アゼルバイジャンを知るのに役立つのがこの一冊。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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