少数派として生きる。ペルシャ湾の離島に住む人々の暮らし

朝起きてテレビをつけると同時に、ワナワナと震えた。

目に飛び込んできたのは、巨大なミサイルが飛び交い、土ぼこりをあげる大地。戦争でもおっぱじまったのかと思うぐらい、物々しい情景であった。速報扱いで、レポーターが興奮気味に立て続けに現地の様子を伝える。

それは、先週訪れたイランのゲシェム島だった。

ドラマチックにいえば、映画のワンシーンのようでもあるが、周りには誰もいないので、衝撃のニュースにワナワナと白々しく震えて見せたとしても、単なる一人茶番劇にしかすぎない。

ミサイルは、イラン革命防衛隊陸軍の軍事演習だという。とりあえず内戦的なものでないことに安堵し、「大丈夫か」と島に住むアレフに安否確認をとった。

会社倒産からホストファミリーに

「いやあ、俺はイランよりもUAEに愛着を感じるよ。むしろUAEの一部になりたいぐらいだ」

ゲシェム島を訪れた、1週間前。空港からホームステイ先のアレフが住むクヴェイ村まで車を走らせていた時のことだ。ひょろっとした細身のアレフは、29歳で生まれも育ちもこの島である。滞在中は、彼の家でホームステイすることになっていた。

私がドバイからやってきたということを知ると、何かとアレフはドバイやUAEに対しての親しみを口にした。

彼の20歳以上離れた姉がドバイに住んでいることもあるのだろう。

当のアレフは、半年前まで食器や電子機器を中国や韓国から輸入する会社で働いていたが、アメリカの経済制裁のあおりを受け、会社が倒産。以後、妻と一人の子どもを養うためにはじめたのが、観光客相手のホームステイ業であり、島のガイドであった。

そんなひっぱくした状況も、石油という当たりくじで労せず豊かになったUAEへの親しみの理由なのかもしれない、と私は勝手に推測した。

本土から送り込まれた使徒

ただ、街を歩くとそれだけではないことに気づく。

イランはイスラーム教のシーア派が多数を占める国である。国内には10%程度のスンニ派がいると言われており、中でもゲシュム島民の大半はスンニ派だ。

一見すると普通に見える街も、スンニ派、シーア派というカラーセロファンを通してみると、違って見えてくる。

「あれは、シーア派の連中だよ」

シーア派もスンニ派も見た目に違いはない。むしろ、分かるとすれば、各派が社会で置かれているゆえに醸し出す雰囲気や身なりからである。

それは渋谷を歩いている若者を、地方から出てきたばかりのほやほや田舎っぺか、否かを見分けるようなものである。

アレフ流の見極め方は、肌の色にあった。ドバイ同様に年中暑く、夏は気温50度近くになる気候ゆえ、ゲシュムの人々は肌がやや浅黒い。一方で”送り込まれたシーア派使徒”は、イラン本土の北部からきているので肌が白いのだという。


ゲシュム島の中心街、ゲシュム・シティのシーア派モスク。政府からの援助により立派なモスクとなっているが、援助がないスンニ派のモスクは小さく、簡素なものであった。

そのほかにも、ゲシュムの女性はカラフルな衣装をきているが、シーア派の女性はチャドルと呼ばれる黒いマントを身につけている。というのが私が新たに発見した見分け方である。

もともとはスンニ派が多数を占める島であったが、アレフ曰く政府がシーア派の人々を島に送りこんでいるのだという。聞けば、スンニ派は公的な役職の一定の職にはつけないなどといった職業差別があるという。

実際に1979年に起こったイラン革命でイラン・イスラーム共和国ができて以来、政府の高官にスンニ派がついたことがない、だとか、ヒューマン・ライツ・ウォッチからは、スンニ派は主要都市でモスクを建設することを禁じられていたり、政治や雇用において制限があることから、スンニ派の人権がおびやかされている、といった批判の声もあがっている。

ちなみに少数派がいつも迫害の対象になるとは限らない。アラビア半島にあるバーレーンは、イランと同じくシーア派が多数を占める国である。しかし、国の王族はスンニ派であり、少数派が国を牛耳る状態となっている。職業差別や経済格差で苦しんでいるのは、多数派のシーア派の人々なのだ。

美しき湾岸の島、バーレーンの裏路地に潜む影

ペルシャとアラブの狭間で

目を細めると、ゲシェム島からはオマーンのムサンダム半島が見える。距離にして50キロほどしか離れてない。

歴史的にもインドやアラビア半島との交易が盛んだったせいもあってか、インド人のような顔立ちをした島民やインドの伝統衣装サリーとイスラームのアバヤを融合した独特なファッションで闊歩する女性の姿を見かけた。

「アッサーラム・アレイコム」とアラビア語で挨拶する人もおり、国としてはイランだけども、どこかアラビア半島の一角にいるような感覚さえ覚えた。


かつては島全土で見られたというバードギールと呼ばれる採風塔。今はこのラフト村でしか見られない。

ともすると我々は、国ありきでその土地を見ようとする。けれども、国境という人工的な線引きは、中東の中でもこのアラビア半島においてはあまり意味をなさないのではないか。

むしろ、権力者の領土確認のための線引きであって、そこにある人々の文化や暮らしを知る上では、障害ともなりうる。

私がいるのは国際的に言えば、イランである。しかし、私からすればイランでもなく、アラブでもなくその中間にある島ともいえる。この島を単にイランの離島としてみるのも、ちょっと違うし、かといってアラブ諸国の一部ともなり得ない。日本でいうならば沖縄的な位置づけである。

沖縄にしろ、ゲシュム島にしろ観光客に向ける顔は、明るい。豊かな自然があって都会にはない、のんびりとした空気が漂っている。それは都会の人間からした都合良のい見方であって、そうした島独自の空気は、人々の暮らしを切実なものにする。

中国船によって脅かされる生活

ゲシュム島の暮らしは、都会のそれと比べればつつましいものであった。もともと漁業や農業が盛んだったというゲシュム島。


ゲシュム島にあるダウ造船所。今も手作業で船が作られている。

アレフの父は、農家だった。島は荒涼とした荒地が続くので、農業に適さない土地かと思ったが、一部の土地ではメロンやスイカなどがよく取れるらしい。実際に、メロンをトラックの荷台いっぱいにつみ、路上販売する農夫の姿も見かけた。

漁業もひと昔前に比べれば、衰退している。島内にあるラフト村に訪れた時のこと。小さな小型舟が集まる海沿いで、6人ほどの男たちがベンチに腰掛け談笑していた。彼らはみな、この村の漁師であった。

「漁の方はどんなもんですかね?」

何気なしに聞いたつもりだったが、漁師の答えは意外なものであった。

「以前に比べると、収穫漁はだいぶ減っているな。なにせ、俺たちの漁場が狭まってるもんでよ。イラン政府が、中国に漁業権を売ってさ。この辺は中国の船が漁業をしてるんだ。その海域に俺らが行こうもんなら、イラン警察に追い返されるんだぜ。俺らイランの海なのにさ」

のちに調べてみると2018年の8月にイランが、イラン海域の深海200メートル範囲内で中国船が長期にわたり漁業を行うことを認めていたらしい。

どんだけイラン政府は必死なのか、と呆れた。大きいものの欲望で被害を被るのは、いつも小さな人々である。

質素な村にそびえ立つ”石油御殿”

こうした行き場のない状況ゆえなのか、石油の密輸も行われていた。

「あの家はな、この村で一番の金持ちの家なんだ」

そういってアレフの目線の先にある家を見ると、それは確かに立派な家だった。といってもUAEであればどこにでもよくあるヴィラである。けれども、簡素な家が密集する村では、我々がよく目にする単なるヴィラは、「豪邸」扱いになっていた。


クヴェイの村。簡素な家が立ち並ぶ

聞くと、家主は石油の密輸で大儲けをして、先の「石油御殿」を建てたらしい。

アレフによれば、島の警察ぐるみでこの石油の密輸は行われており、その石油はホルムズ海峡を渡る国際船に売りさばかれているのだという。買う側にしても、安く買えるというので、ウィンウィンである。


密輸用の石油が染み込んだことで、黒ずんでいる浜辺。クヴェイ村近くの海岸にて。かつてはこの近くは密輸の拠点となっていた。

島を車で走っている途中に、ピックアップトラックにドラム缶を乗せて走る車を見かけた。車のナンバープレートはもぎとられ、これが”密輸中”の車だという。

運良くオイルマネーに潤う国の特権を得たイラン人

観光客向けに売り出す、のんびりとした島の雰囲気とは穏やかに、島民の暮らしには陰鬱たる空気が漂っていた。

少数派に対してなされるイラン政府からの締め付け、生活に直撃する中国船の存在、アメリカの経済制裁による物価高。

よりよい生活のため、島を出ることは考えないのだろうか。

アレフに何度も尋ねた。この島を出る気はないのか、と。首都テヘランだったらまだ仕事があるんじゃないか、と。しかし、彼は「テヘランはとにかく人が多すぎる。俺がいる場所じゃない」という。愛着あるこの地を離れる気はないのだろう。

アレフが思いを寄せるUAEで働くことも容易ではない。

かつては、ドバイの主要な貿易相手でもあったイラン。人の行き来もUAEが建国する以前からあり、1925年以前に移住したイラン人であればUAEのパスポートを取得できた。ドバイのサトワ地区には、イランのシーア派モスクやイラン病院があり、小さなイランコミュニティが存在する。

アラブとペルシャが交錯する場所。海沿いの商店街を訪ねて【ドバイ郊外の町を行く】

しかし、UAEを取り巻く事情も大きく変わった。サウジアラビアとイランの断交。UAEやサウジアラビアもこれまでになく、アメリカとの関係を強化している。そんな中、アメリカの呼びかけによりドバイもイランに対する経済制裁に応じることとなった。

当時は仲睦まじかった夫婦が、急速に冷めて仮面夫婦になるがごとくである。お互いは変わらないが、互いを取り巻く環境が急速に変わったのだ。

もはや島の人間が、対岸にある石油収入でウハウハな湾岸諸国で働く夢のチケットを手にすることはできない。

ゲシュム島からドバイ空港へ戻った。入国審査所では、UAEの伝統衣装、「カンドゥーラ」を着たイラン人が”自国民”レーンに並んでいた。同じ飛行機に乗り合わせた乗客である。

運良く夢のチケットを手に入れた人。そうではない人。両者の運命を分けたのは、まったくもって運としか言いようがない。

イラン旅行のおともに

イラン出身の吉本芸人が書いた本。イランについてこれほど面白く、軽やかにかいた本を他に知らない。イラン人が面白すぎるというより、この本が面白すぎる。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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