ホルムズ海峡の奇島。7色に染まる不思議なレインボー島の正体

当初、ホルムズ島に立ち寄る予定はなかった。ゲシュム島、キッシュ島はビザなしでもいけるが、ホルムズ島に行くにはビザが必要だと聞いていたからだ。

実際にゲシュム航空の職員に尋ねたり、ネットで調べた限りでもビザなしでいけるのは、ゲシュム島とキッシュ島のみということだった。

ビザなしで行けたホルムズ島

しかし、「え?ビザなんかいらんよ?」とアレフが言うので、かねてからホルムズ島に行ってみたかったので、急遽向かうことにしたのである。

ゲシュム・シティにあるポートから、ホルムズ島行きのフェリーが毎日朝7時と昼の2時の2便が出ている。朝6時にクヴェイの村を出発し、フェリーに乗り込んで40分ほどで船はホルムズ島に到着。

UAE同様に、この辺の地域は冬でも日中は30度ほどの気温。なんの変哲もない島であるが、寒さを逃れポカポカ陽気にあたろうとテヘランを始めとするイラン北部からの観光客が多く、島は賑わいを見せていた。

寒い冬をしのごうとドバイに押し寄せるイギリス人やロシア人と同じ原理である。

世界の名だたる有名人が訪れた栄光の島

そんなイラン人たちにまじり、ちらほら見かけたのがバックパッカーたちである。いかに暇を持て余している身分とはいえ、わざわざこんな離島にやってくるほど暇だとは。

今では、寂れた島と化しているホルムズ島だが、その経歴は華々しい。マルコ・ポーロやイブン・バトゥータ、中国の武将、鄭和(ていわ)など、そうそうたる人物たちがかつてこの地の土を踏んだ。


ホルムズ島からは、対岸にあるオマーンの飛び地「ムサンダム半島」がかすかに見える

日本では知名度が低いが、イブン・バトゥータは、中東地域では誰もが知るモロッコ出身の大旅行家である。その経歴は、日本のバックパックカーたちが崇める沢木耕太郎なんぞ比ではない。

モロッコ国王の命を受けて、21歳から50歳にいたるまで約30年もの間、イスラーム諸国を中心とする国を旅した偉大なお方である。30年間旅をし続けるというのも尋常ではないが、彼が旅をしたのは飛行機が発明されるずっと前の14世紀である。

イブン・バトゥータの旅の記録は、「大旅行記」としてまとめられ、現代では「三大陸周遊記 」や「イブン・バットゥータの世界大旅行」として関連本が手に入る。私がこのアラビア湾海域をあちこち旅するのも、イブン・バトゥータと同じ場所に足を踏み入れてみたい、という思いがあったりする。

自然に挑むことにロマンを感じる人々

個人的なロマンはさておき、ホルムズ島にはタクシーもバスも走っていない。そこで登場するのが、トゥクトゥクである。東南アジアで良く見かける三輪タクシーだ。


単純に安くなるから、という理由で見も知らぬカップルと1台のトゥクトゥクをシェアすることになった。カップルはテヘランから観光にやってきたのだという。


薄いクレープ生地に卵やチーズを乗っけて、島の特性魚ソースを垂らした「ラガッグ」というパンを朝食にする

ホルムズ島は小さな島だが、歩くのにはでかすぎる。イラン人たちのほとんどは、ツアー会社のバスやトゥクトゥクで移動していた。しかし、わざわざ歩いて島を周るという物好きな欧米のバックパッカーも時々見かけた。

オマーンでも思ったのだが、欧米人というのは、やたらと挑戦したがる。車で行けばひゅっと行けるところを、わざわざ自転車や歩きで行こうとしたり、山にしても普通に登るのでは気が済まないらしく、わざわざロープを使ってトレッキングだのアドベンチャーなどと行って、挑戦したがるのである。

成熟した社会に住む彼らにとっては、日常生活には心を揺さぶる挑戦や困難がないのだろう。だからこそ、自然の中であえて遠回りや困難を選ぶことに、一種のロマンさえ感じているようであった。

それは「忙しい忙しい」といって、仕事に精を出す自分がかっこいいと思う日本人と同じ精神なのかもしれない。

砂マニアの男とめぐる7色の砂探し

トゥクトゥクでのホルムズ島めぐりは、まるでディズニーランドのアトラクションのようだった。めぼしいスポットに着いては降ろされ、観光客はその辺をうろうろして楽しむ、というシステムである。


トゥクトゥクを降りた我々一行は、塩の結晶がそこかしこにある地面を歩く


塩でできた神秘的な塩岩。ディズニーランドのアトラクションに出てきそうな色合い

中でもホルムズ島を「奇島」と呼ぶにふさわしいのが、虹を構成する7色の砂の存在。今日まで、砂はせいぜい茶色や赤茶色だと思っていたのが、これを機に砂の常識が変わるのである。


ホルムズ島でよく見かけるサンドボトル。着色料不使用。すべてホルムズ島でとれた砂。危うく買いそうになった。

そう、砂には赤も緑も、青もピンクもあるのである。それがホルムズ島の常識である。はじめこそ、都市伝説かと思っていたが、よく考えればわざわざ着色料を島外から輸入して、砂にせこせこ色付けするのも金がかかる。


ホルムズ島で見つけた不思議な砂。黄、緑、赤、ピンクの砂は見つけることができた。左はビーチ一面に広がっていた黒光りする砂。


乗り合いをしていたカップルの男は、やたらと不思議な砂を見つけては袋に詰めていた。


赤色の砂が欲しいと、わざわざ一人で砂山に乗り込んでいく砂マニア。赤砂のせいでトラックも倉庫もすべて真っ赤に染まっている。


ピンクの砂で覆われた道。なぜか林家ペー・パー子を思い出した。ホルムズ島まで去来してくるとは。

真っ赤に染まるポルトガル要塞

ホルムズ島に立ち寄りたかった目的は、このポルトガル要塞を見ることにあった。普段は、歴史的遺跡などそんなに興味もないのだが、ペルシャ湾(アラビア湾)やアラビア半島にある遺跡が別だ。

大航海時代の一端の歴史が、この湾岸にはある。16世紀のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見以来、ポルトガルは、アジアとの交易の重要地として湾岸各地に拠点を設けていた。17世紀にはじまるイギリスの支配に先んじてのことである。

そんなポルトガル軍による要塞がバーレーンのマナーマやホルムズ島にある。世界史では、ほとんど日の目を見ることのない湾岸の歴史ではあるが、よく目を凝らして見ると、耳にしたことがあるワードが飛び出てくる場所なのだ。

そんな歴史の一端を担ったポルトガル要塞だが、今では、ほとんど崩れかけてしまっている。その上、島特有の地質なのか、辺り一帯は赤色の砂で覆われていた。まるで赤の要塞だ。

大航海時代の血筋

島唯一の、歴史的観光スポットということもあってか、あたりには土産屋がちらほら並んでいた。貝殻のアクセサリーやサンドボトルなど、どの店も同じ商品を売っている。


商売よりも今を楽しむばあさん。ガラスのシーシャ(水タバコ)とは違い、陶器製のシーシャでタバコを吸っている。これがめちゃくちゃうまい。


イランのおばさんはやたらと好奇心が旺盛。「自分も吸ってみたい!」とシーシャに挑戦。大阪のおばちゃんとイランのおばちゃんが重なる。

そんな現地住民たちに混じって、バックパッカーらしいヨーロッパ人女性が、何やら自作のアクセサリーを並べていた。他の土産屋よりもずいぶんと洗練されたデザインが目をひく。

はたから見れば青空マーケットに出店するアクセサリー作家にでも見えようが、違う。そのバックパッカーは、貝殻で作った自作のアクセサリーでもって、やるきなさそうに同じ商品を売りさばく市場に対し、差別化と競争を持ち込んできたのである。ささやかな資本主義の到来である。16世紀のポルトガルといい、おそるべしヨーロッパである。

島の各所で見かけたヨーロッパのバックパッカーたちは、目立っていた。かつてこの地域を支配したヨーロッパからの人々であろう。服装からすれば、ホルムズ島民の方がまだ小綺麗な格好をしている。

そんな浮遊するバックパッカーの姿に、かつて破竹の勢いで湾岸地域を支配した国の威勢は見出せない。それでも彼らを突き動かしているのは、かつてこの地を訪れたヨーロッパの先駆者たちと重なるものなのかもしれない。

イラン旅行のおともに

イラン出身の吉本芸人が書いた本。イランについてこれほど面白く、軽やかにかいた本を他に知らない。イラン人が面白すぎるというより、この本が面白すぎる。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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