1泊2日のクリンチ登山を終えた後、私はジャングルへ分け入った。ジャングルに入りたくて入ったわけではない。きつい登山の後に、ジャングルに己を放り込むことで、己の体力の限界に挑戦したかったのだ。
ここから1週間のジャングル生活が始まる。クリンチスブラット国立公園は、絶滅危惧種であるスマトラトラが住むジャングルで知られる。クンチから車で約2時間。スマトラ島最大級の規模を誇る国立公園であるが、ここを訪れる観光客はクリンチ山よりもさらに少ない。
ジャングルジム
ジャングルではあるが、ガイドされる観光客という体なので、ひとしきりガイドが案内するままにジャングルを堪能する。巨大ヤスデを見てわざとらしく驚いてみたり、木のツルでターザンごっこをしておどけてみたり。この辺はまでは、ジモティーも散歩で訪れる”浅い”ジャングルなので、ジャングル側の対応もよく、こちらも楽しめていた。
しかし、ある一線を越えるとジャングルの態度は急変する。見たかろうが、見たくなかろうが、スマトラトラを見るというのが、このツアーの趣旨なので、トラを見るには人が立ち入らない”深い”ジャングルへ入る必要がある。「この先立ち入り禁止」と書かれた看板を背に、我々はずんずんと奥へ分け入っていく。
激流を歩いて、深いジャングルへと分け入る
その先に初日のキャンプ地があった。ガイドのサンドラと料理人デデンは、近場で採取してきたバナナの葉を地面にしき、私のテントを手際よく設置していく。キャンプ経験ゼロの私は、ただそれをじっと見ているしかない。自分のことなのに何もできやしない。私は正真正銘の木偶の坊であった。
ジャングルに埋もれる私のテント
食事、洗濯、排泄、沐浴すべてを賄ってくれる偉大な川。キャンプ地設営においては、川の近くがベスポジとなるらしい
配膳されたインドネシア名物のサラダ、「ガドガド」。ピリ辛ピーナッツソースにあえていただく
ジャングルガイドで培ったサンドラの素晴らしい筋肉について語り合い、「これが本当のジャングルジムだな。ワハハ」などと、くだらないギャグをかましていたのもこの時までである。
ゴッキーよりもやばいやつ
初日なので、深いジャングルもそこまでは手厳しくはなかった。ところがそれ以降は、ジャングルの厳しい洗練を受けることになる。それが、ヒルだ。2日目以降は、高所をひたすら登っていくのだが、高所で湿り気がある場所は、ヒルの多発地帯となる。
雨が降ると、ヒルも嬉しいのか、ひたすら活発になる。歩いているだけでも、地面のそこかしこでヒルが目視できるレベルである。体温か何かに反応しているのか、的確に人間をめがけて、秒速3センチぐらいで、こちらへ迫ってくるのである。気づけばたった1時間ほどで、靴の中に十数匹のヒルがうごめく状態に。
静かなる潜入者の執念には、驚きしかない。血を吸われたらゲームオーバー。というわけで、休憩の度に私は靴を脱いで、足回りを念入りに確認、ヒルを一匹ずつデコピンで弾くことにした。ヒルがいなくなったのを確認し、ようやく安堵の休憩に入れるのである。しかし、ヒル地帯にいる限り、この恐怖は終わらない。野生のゴッキーを見た時は、感動すら覚えたが、ヒルだけは許せねえ。
キャンプ地に移動した後も、ヒルの恐怖により私はついにテントに引き篭もることにした。そんなことも露知らず、サンドラとデデンはこの木偶の坊テントに、飲み物や食事を甲斐甲斐しく運んでくれるのであった。
ヒルの恐怖によりテントに籠城中。2日目以降は、テントを自分で設営できるようになった。
彼ら曰く、「ヒルは友達」らしい。しかし、翌朝ガイドのサンドラは、その友達に見事なまでに血を吸われていた。それでも、笑って友達だと言う。
そんな強い人間に私はなりたい。
そう。私は悔いた。巨大ヤスデも手づかみできないし、ヒルにすらビビりまくる、私のような弱い人間などジャングルに来るべきではなかったのだ。壮大なジャングルにいるというのに、つまらんヒルの話で終始している。これこそヒルの思うツボではないか。
これまでにどんな観光客をガイドしてきたのかと尋ねると、下は7歳から上は65歳まで。おそらく、その中でも最弱人間は、私だろう。
小さな子どもが、巨大ヤスデを笑顔で掴む写真を見せられた時に、それを確信した。65歳に至っては、ヨボヨボの高齢者を想定していたが、とんでもない。胸ポケットに入れたガソリンという名の酒をぐいっとやり、ジャングルを駆け回っていたという。その姿は、ガイド曰くリアルランボーだったという。どんな65歳だ。
野生のトラに遭遇
トラを見れるのは7、8月が確率的に高いのだという。とはいえ、野生のトラとの遭遇など、そんなにあるものではない。7年ガイドをやってきたサンドラでさえ、見たのは1度だという。彼がトラに遭遇したのは、とある旅行者をガイドしている時だった。
何やら聞き慣れない轟音がする、と思ったらその数分後。数十メートル先を、獲物である猪を追うトラが走り抜けていったらしい。野生のトラを生でみたら興奮するものだろうか、と思いきや実際はそうではなかった。
もしもトラが人間に気付き、こちらに向かってきたら・・?しかも獲物を追いかけているトラは腹を空かせているに違いない。そんなトラに見つかれば、こちらはアウト。
トラを目撃したサンドラと旅行者は、顔面蒼白に。旅行者は、トラが過ぎ去ったのを確認し、水をがぶ飲みしたという。サンドラに至っては、その後1週間家で寝込んだというPTSD並みの体験となった。
人間社会にいる限り、人間は捕食ピラミッドのトップとして、襲われるなどという生物としての恐怖を味わうことなどない。しかし、彼らはトラの前でそうした絶対的地位が崩れ去り、己の死を予感した。ジモティーいわく、トラは人間を襲わないし食わないということだが、それは状況によると言えるだろう。
ジャングルの思考
トラに食われるほどではないが、私はヒルに対するのとは別の恐怖をジャングルに感じていた。荒いジャングルは、人間にとって好都合な癒しではない。むしろ恐怖の対象である。
なぜなら、そこには生と死が淡々と紡がれ、あらゆる生命体も、生と死をめぐって淡々と活動しているからである。それ以上もそれ以下もない。純粋に生命活動が循環しているだけなのだ。
ジャングルでは全く陽が当たらない
我々は普段、資本主義やグローバリズム、カワイイかブサイクか、モテたいモテない、結婚したいができない、といった人間が作り出した概念や空想の中で生きている。
しかし、ジャングルには当然そんなものはない。バナナは葉が美しく能力が高くてモテるけど、ヒルは体が細いし稼ぎもないから結婚できないね、とはならない。
我々の根底を支えている概念が、ジャングルにはないのだ。白樺派もバロック派もローマ帝国もない。ただ、戦争のように生死だけが、剥き出しとなっているのだ。
それは、人間の本来あるべき姿とも言えるかもしれないが、現在はその生死が剥き出している方が異常と捉えられる。だから、人々は戦争が起こると動揺し悲しむが、ジャングルは人の生死なんてこんなもんだよ、と残酷な事実を淡々と語っているのである。
とはいえそんなジャングルにいれば、すっかり高尚な人間になれるとは限らない。実際にジャングルで見た夢は、どうでもいい低俗な夢だった。
謎の野生動物に震え上がる
さらにジャングルを進むと、ヒルよりもでかいメガトン級の恐怖が我々を襲った。何やら低音ボイスの唸り声が聞こえる。トラではなさそうだ・・・しかし、猪か?
一行に緊張が走る。普段は陽気なサンドラも、この時ばかりは三船敏郎ばりに真面目な顔つきになっている。
ああ、これは生死が関わるやつだ・・・
サンドラとデデンは腰にぶら下げた蛮刀をいつでも取り出せるよう、臨戦体制になっている。私も方も、声の主を猪と想定し、襲われた場合のシミューレションを頭の中で始めた。
内心では緊張していたが、側から見ればそれは藤岡弘、探検隊が獲物を発見した時のような、白々しい空気が蔓延していた。
しばらくじっとしていると、高い木の上に低音ボイスの主が姿を現した。
それは、猿だった・・・
けれども、それはフレンドリーな猿ではなく、人も襲う獰猛なサルだということを後に知った。
ジャングルの挨拶回り
ジャングル生活は基本的にヒマである。なぜなら、やることといえば、歩いて食って寝るだけだからである。途中で他の人間に会い、おしゃべりをするということもない。陽キャのサンドラ率いる我々も、ずっと話しているわけではなく、時には沈黙が続くこともある。
人間との会話が途切れると、動物との会話に移行する。モノマネタレントのごとく、鳥やカエル、猿の鳴き真似をしながら、動物を会話するサンドラを見て、なるほどその手があったか、と気付かされる。そう、普段は人間にとって”音”としてしか処理されないが、動物たちにとってはそれは、コミュニケーション。すなわち、会話なのである。
動物との会話に加え、単調なジャングル生活の刺激となったのが、ジャングルの客人たちであった。基本的に暗くなれば、テントにこもり就寝となるのだが、珍しい生命体を不思議がってやって挨拶回りをしてくる住人たちもいた。
ある時にはホタル、巨大バッタ、そしてちびっ子たちの憧れ、人気者のクワガタもわざわざテント内にやってきて、挨拶をかましてくれる。さらには、テント上にダイナミックなダイブをかましにきた、ノネズミもいた。
ちびっこが憧れるクワガタは、路上に落ちているバナナの皮のごとくそこかしこにいた
ジャングルで見た一番のレアもの、カメレオン
ジャングルは歌舞伎町と似たところがある。朝と夜にかけては、動物たちは活発に動き回るが、暑い昼は閑散としており、動物や虫は気配を潜めてしまうのである。
ジャングルレストラン
ヒル地帯をようやく抜けた。それはつまりジャングルの出口が近いことを意味する。ヒルがいない地上を歩くってこんなに素晴らしいことなのか!と、稀有な嬉しさに包まれ、私は一歩一歩、大地を噛み締めた。
エメラルドグリーンに輝く神秘期的な湖
ヒルがいない嬉しさにテンションが上がり、私はキャンプファイヤーをしようぜ、とサンドラとデデンに呼びかけた。
というわけで、キャンプファイヤーの薪となるバンブー狩りに出かけた。デデンが手際良く乾いた竹を剪定し、運びやすい大きさに切っていく。といっても、3メートル近くはある。それを私とデデンでキャンプ地まで運ぶ。
ジャングルで出会ったら嬉しいものランキングがあるとすれば、竹はバナナに次いで2位にランクインする。バナナは、その実は言うまでもなく、葉っぱの利便性は極めて高い。竹は、水を貯蓄しているため飲料水としても飲め、ジャングル内のドリンクバー的存在である。そしてそのしなやかボディは、着火剤にもなるし、容器や細工にも使える。
ジャングルでは基本的にあらゆるものが、しけている。それに対し、キャンプファイヤーは、”乾き物”が必須である。小さく切った竹を乾かし、そこでようやく着火。
キャンプファイヤーがこれほど、テンションが上がるアクティビティだとは思わなかった。あたりには誰もいないし、ここはジャングル。よって、人間社会で押さえつけられたタガが外れたのか、私はあたりにあるめぼしいものを見つけては、せっせと火に放り込んだ。
キャンプファイヤーの夜
その辺の草に始まり、ダイオキシンが発生するから燃やすな!と言われるプラスチック、はたまたは誰かが捨てた服など。心の赴くままに、いろんなものを燃やした。それは燃やすとどうなるのか?という単なる好奇心からである。
人間社会にいるといろんなルールや前提を教え込まされる。これをやっちゃだめ、あれをするな。けれども、そんなルールがない場合だと、人は思うままにいろんなことに挑戦する。ルールというのは、節度を守る上では重要なのかもしれないけど、それに伴い人間が持つクリエイティビティも一方では奪うのではないか。燃え盛る炎を見ながら、そんなことを考えていた。