まるでおとぎの世界!?イスラームの城塞都市ハラール・ジュゴルを歩く

前回は、堕落してるだの、ほぼスラム街だのとディスってしまったエチオピアの世界遺産ハラール。

聖地という期待をしてしまったのが悪かったのだ。ゆえに、現実とのギャップに我ならがおののいてしまった。

しかし、ハラールの美しい部分に対峙しようと思った時。徹底的に”闇”の部分を浄化させなければ、美しい”光”と向き合うことはできないのである。そう、前回の記事は、闇の浄化作業だったのである。

今回はハラールの闇ではなく、光の部分に注目して町を歩いてみよう。

イスラームの城塞都市はどこからやってきた

5メートルほどの高い壁に囲まれた城塞都市が作られたのは、13~15世紀頃だと言われている。

けれども、ここに住む人々の祖先がいつからここにいるのか。そして、一体どのような経緯でイスラーム教を信じるようになったのか、ということはよく分かっていない。

エチオピアの世界遺産_城壁都市ジュゴル
ハラールの城塞都市ジュゴル

ハラールの街並み
城壁内の路地では、女性たちが野菜やスパイスなどを売っている

いろんな本や記事を見ても、この地域でイスラーム教が広まった起源に関しては、みなバラバラなのである。

例えば、7世紀に預言者ムハンマドの信者が、現在のエチオピアとエリトリアにあったアクスム王国に逃れたことがきっかけで、この地域にイスラーム教が広まったとか。

10世紀頃にイエメンから44人の使者がやってきたとか、10~13世紀頃にアラブ系移民がやってきたとか、という具合である。

この地に住むのは、エチオピア人というよりハラリ人というべきなのかもしれない。彼らは、ハラリ語という独自の言語も持っている。

ハラールは、ソマリアに近いということもあってか、ソマリ人も多く住んでいる。ハラールから車で1時間ほど行けば、”ソマリ州”になる。

エチオピア領土内だが、ソマリ州なのである。この辺はもはやエチオピアというより、ソマリアという雰囲気。さらに車で数時間も行けば、ソマリランドに到着する。エチオピアでありながら、ソマリアに近い東部はソマリ感の方が強いのだ。

当時からハラールには、オロモ人(エチオピア最大の部族)やソマリ人たちも多く住んでいたようで、ハラリの人々は、こうした”外国人”による同化や襲撃の危険性に常にさらされていた。

ハラールへの探検をまとめた、リチャード・バートンの『東アフリカへの第一歩』からも、そのことがうかがえる。

ハラーリの人々は、アラブ人、ソマリ人といった、これらの外国人たちに憎悪を抱いている。特にソマリ人は、ハラール人口の3分の1にあたる数を占めている。

リチャード・バートン『東アフリカへの第一歩』

ハラールに城壁が作られたのも、こうした外国人からハラリ人のアイデンティティを守るためだったとも言われている。

不思議なイスラームの町

出自ははっきりしなくとも、確かにこの都市に住む人々が、イスラーム教を信じているのは、確かだった。

城塞都市の周囲は3.5キロ。決して広くはない場所だが、6,000近くの民家があり、2万人ほどが暮らしている。

城壁内には368もの小道があり、複雑に入り組んでいる。通りに名前もなければ、見通しも悪い。同じような道や建物が続くので、方向感覚に自信がある人間でも、すぐに迷ってしまう。

城壁都市ハラール・ジュゴルの路地
路地の幅は狭く建物が密集している

そして、イスラームの城塞都市ということもあって、モスクだけは大量にある。その数なんと82。もともとは、イスラーム教の神アッラーにあやかって99のモスクがあったのだという。

99というのは、イスラーム教の神が持つ別名の数である。別名といっても、「守護者」、「慈悲深い者」、「高貴なる者」、「偉大なる王」と言ったドラクエチックなものである。

城壁内のモスクは、我々が一般的にイメージする、大きく立派なモスクではない。民家のようにひっそりとたたずみ、その多くは徹底的にモスクっぽさをかき消しているのである。

ハラールのモスク
これはわかりやすいモスク。城壁内にある82のモスクのうち、古いものだと10世紀までさかのぼる。

ハラールのモスク
モスクは礼拝時間以外は閉まっている。モスクの形は入り組んだものが多く、入り口が簡単に見つからないものもある。

城壁都市ハラールのモスク
このような10人程度が入れる小規模モスクが点在している。

近づいてよく見てみないと、モスクと気づかないものも多くある。いや、気づかずにスルーしてしまったものも多くあるだろう。城塞都市では、こうしたモスク探しをするのも一興。

城壁都市ジュゴルのジャーミイ・モスク
町中で一番大きな「ジャーミイ・モスク」で祈る女性たち。ここだけは唯一女性の礼拝セクションがある。

また、城壁を囲む門の数にもイスラームっぽさが発揮されている。現在、城壁には6つの門があるが、もともとは5つのみだった。5という数字は、イスラーム教の”5″つの義務に由来している。

リチャードバートンが通った門
イギリスの探検家、リチャード・バートンが1854年にやってきたときに通過したエレル門 (Erer Gate)。門の外では女性たちが覚醒植物カートを売っていた。

実際に町を見ても、メッカの絵や、アラビア語が書かれていたりと、イスラームっぽさがそこかしこにある。

ハラールの中のイスラーム
左上から時計回りに、イスラーム教2大聖地のイラストが描かれた建物、メッカが描かれた布をつけた仕立て屋、アラビア語が書かれたモスクの装飾。

踊りまくる謎の一派

城塞都市内にあるのは、イスラーム教だけではない。イスラーム神秘主義と言われる、スーフィズムゆかりの場所も存在する。

サンガ門(Sanga gate)の近くにあるのが、シェイク・アブディールというスーフィーズム指導者の墓だ。

ハラールのスーフィーの館
シェイク・アブディールの墓

一応、イスラームとはついているが、スーフィズムは独自路線をたどっている。

クルクルと旋回することで、気分を昇華させ、神と一体になろう☆というのが、スーフィーズムのコンセプトらしい。トルコなんかでよくやっている、あの旋回舞踊を踊る人々である。

実際にその場にいたスーフィー男性に、「スーフィーズムというのも、1日5回礼拝をするのか」と聞いてみた。しかし、返ってきたのは「いや、まあ、俺たちはそういうのじゃないんだ」という、あいまいな答えである。

明らかに、普通のイスラーム教とは様子が違ったので、それ以上深くは聞かなかった。ただ、聞くところによると、彼らは毎週木曜日に夜な夜な集まり、舞踊大会を催しているらしい。

お香を焚きしめて、もうもうと白い煙が上がる中、太鼓のような音楽に合わせて、人々がクルクルと踊り続けるのだという。カートもやりながら、踊るんだろうなということは容易に想像ができた。

なにせハラールではカートが蔓延している。それに、この神聖なはずのお墓でも、建物の裏庭でカートをせっせと栽培していたほどだ。

アフリカのイスラーム

ここハラールでも、私のような見た目中国人が歩けば、チャイナコールが沸き起こる。それも、かなり強めのコールだ。

けれども、ジモティーたちに「アッサラーマ・アレイクン」とアラビア語で挨拶すると、「ワアレイク・ムッサラーム」と返事をする。ジモティー同士でも、この挨拶を交わしていた。

ちょっとした感動である。

原則的に、日本語は日本人以外には通じない。けれども、このイスラーム教の言葉であるアラビア語は、世界16億人の共通言語なのだ。共通言語と言っても、簡単な挨拶ぐらいだけだが。

それでも、自分が知っている言語を異国で発見した時の安心感というか。あれだけ遠かったハラールでも、急に親しみがわいてくる。

ハラールの家
ドアの上にはアラビア語で「マアシャ・アッラー」と書かれている。イスラーム教徒の人々は「邪視」を信じている。所有物をほめられたり、うらやましがられることで、災いが降りかかる、というものだ。

間違って地元の学校に紛れ込んでしまった時。優しげな先生が「のぞいてもええで」というので、授業をのぞくと、ちびっ子たちが大声で「アッサラーム・アレイクム!!」と挨拶をしてきた。

ひえっ!?

やっぱりアラビア語だ。エチオピアなのに、アラビア語で挨拶をされるという不思議。

いや、これもイスラーム教ゆえなのだ。聞くとこの学校では、イスラーム教とはなんぞやという授業に始まり、生徒はエチオピアの公用語であるアムハラ語、オロモ語、地元の言語であるハラリ語、英語、アラビア語の5ヶ国語を勉強しているのだという。

ハラールの学校学校の壁に描かれたメッカのカアバ神殿

毎年、顔を変える城塞都市

いかに汚染された部分が目立つとはいえ、訪れる外国人を惹きつけるのが、城塞都市内のカラフルな建物である。

ハラールのカラフルな街並み
絶妙な色使いとコントラストがたまらない

ゴミや汚水が撒き散らされた地面を見ていると鬱々としてくるが、建物外壁だけは原宿のようにポップでカラフルである。

一体いつから住民たちが、このような色を塗りたくるようになったのかは、はっきりしない。

わかっているのは、ラマダン前になると、家の外壁をペンキで塗る行事が毎年行われているということだ。

毎年、気分によって塗る色やデコレーションを変えているらしく、年によって同じ建物でも違う顔を見せる。

毎年顔を変える町
同じ建物でもこの通り。

都市に彩りを与えるのは、建物ばかりではない。地元女性が着ている服も建物同様にカラフルなのである。建物と女性の姿のコントラストが美しい。


狭い路地を歩くイスラーム教の女性


ハラールキッズ。色使いが原宿系。


城塞都市に住むハラリ女性

ハラール名物ハイエナマン

ハラールへやってくる多くの観光客が、お目当にしているものがある。それが、ハイエナの餌付け。城塞都市からさほど離れていない場所で、毎夜開かれているハイエナのエサやり会である。

夜7時すぎになると、ハイエナマンが独特の口笛を吹いてハイエナを呼ぶ。集まるハイエナの中には、特にハイエナマンに懐いている個体がおり、ハイエナマンに急接近してエサを食べる姿が好評なのである。

ハラールのハイエナマン
ハイエナが主役だというのに、しゃしゃり出てきたワンコ。ハイエナも「こいつ、何なん?」という表情である。

ハラールのハイエナの餌付け
本当はこうなる予定だった。が、当日は人に懐いているハイエナが現れなかったため、これは見られなかった。

今でこそ、観光客向けのショーみたいになっているが、干ばつ時に城塞都市を襲うハイエナに悩まされた住民が、ハイエナにエサをやって、お引き取り願おうとしたのが始まりである。

それ以降、翌年の豊穣を祈り、人々がハイエナに食べ物をあげる行事が毎年行われるようになったのだという。ハイエナにあげるのは、溶かしバターをつけたポリージである。

この行事は「アーシューラー」と呼ばれる。イスラーム教シーア派が行う行事の中にも、同様のものがある。両者は同じ時期に行われるが、ここハラールのアーシューラーがハイエナにエサをやるものに対し、シーア派たちが行うのは自らの体を鎖や刀で痛めつける自虐祭りである。

それにハラールの人々は、シーア派ではなくスンニ派だ。アーシューラーを祝う慣習はない。不思議な偶然ではあるが、やはりその由来は定かではない。

ハラールは、イスラーム教第4の聖地とは言い難いし、世界遺産としての品格も怪しい部分がある。

地面に広がるのは、貧困が裏で糸を引く圧倒的な闇。けれども、顔を見上げれば、そこにはカラフルな建物やジモティーに囲まれる、乙女のうっとり空間である。

今回フューチャーしたのは、多くのメディアが取り上げる”光”の部分だ。闇がどんなに深かろうと、光の部分が美しいことには変わりない。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

管理人をフォローする
エチオピア
シェアする
進め!中東探検隊