エチオピアでイスラーム教第4の聖地を探す旅

サウジアラビアの旅を終えた私が次に向かったのは、エチオピアのハラールと呼ばれる町だ。

ハラールを訪れたのは一冊の本がきっかけだった。『探検家リチャード・バートン』という本である。

なぜこの本を購入したのかはよく思い出せない。とにかく気になったアマゾンで購入し、日本の実家に送りつけた大量の本の中から、発掘された一冊であった。

不思議な探検家リチャード・バートン

リチャード・フランシス・バートンは、19世紀に活躍したイギリスの探検家である。

バートンは、東インド会社で軍人としてつとめる一方で、年単位の休暇をとり、メッカや東アフリカを探検した人物である。

非イスラーム教徒でありながら、サウジアラビアにある聖地メッカへの潜入に成功したことはよく知られている。

当時のメッカは非常に危険な場所で、イスラーム教徒以外が生きて帰ってくることは珍しいとされていた。潜入記は、『メッカとメディナへの巡礼の物語』と言う本にまとめられた。

またバートンは、タンザニアにあるタンガニーカ湖を最初に発見したヨーロッパ人でもある。

言語習得に優れた人物で、36もの言語や方言を話したという。当時の社会でも一、二を争うほどの優れた言語学者だった。とりわけ、アラビアンナイトで知られる『千夜一夜物語』の英訳本は、現代においても高く評価されている。

このように、バートンが単なるエリート出木杉くんであれば、さして興味はわかなかっただろう。バートンへの興味がわいたのは、彼がかなりの奇人だったということである。

「発見は私のマニアだと言える」というバートンは、あらゆるものを研究した。

先のように、ヨーロッパ人が未踏の地へ真面目に探検したかと思えば、おならについて研究し『おならの歴史』という本を出してみたり、猿語を研究するために猿を飼ってみたり、イギリスの奇人サークルに頻繁に出入りしていたというのである。

何この人、やば・・・

伝記物は滅多に読むことはないし、偉人にも興味はない。けれども、バートンの探検を描いた伝記は、一気に読み上げてしまった。

それに、ドバイにいた時から、どうもイギリス人のクセの強さが気になっていたのもある。イギリス人は、高貴に見えてエキセントリックな人々。それが、個人的なイギリス人に対するイメージである。

1853年のメッカへ潜入後、バートンが次の探検先として目をつけたのがハラールだった。

ちなみに1853年は、黒船が来航した年である。江戸の人々が、ガイジーンと黒船にビビっていた頃、世界を席巻する大英帝国は、ヨーロッパ人未踏の土地を目指す多くの探検家を排出した。北極探検に乗り出し、129名の隊員が絶滅すると言う最悪の悲劇が起こったのもこの時代である。

極限状態の人間ドラマ。北極で全滅したフランクリン遠征隊を描く「ザ・テラー」

ハラールというのは、先の本によれば、ソマリランドにあり、当時はイスラーム教徒以外は生きて帰ったことがない”禁断の地”だったという。

ソマリランドへは一度訪れたことがある。けれども、ハラールなんていう場所あっただろうか。

調べてみると、それは現在のエチオピアであった。ソマリランドとの国境に比較的近い場所にある。

さらに、ハラールは現代においては、イスラーム教第4の聖地だとも言われており、英BBCでは “アフリカのメッカ”というキャッチーなフレーズとともに紹介されていた。

イスラーム教第4の聖地?アフリカのメッカ?聞いたことないな。

今まで、イスラーム教について調べてきたし、いろんな本も読んできた。しかし、アフリカにイスラーム教第4の聖地がある、などという記述はみたことがない。

すでに、マディナをのぞく、メッカ、エルサレムには訪れたことがある。仮に第4の聖地があるのであれあば、これは行くしかない。

そんなわけで、サウジアラビア周遊を終えた私は、イスラーム教第4の聖地の正体を探るべく、エチオピアへと向かったのである。

族に襲撃されるかもしれない

エチオピアの首都アディス・アベバから東部にあるハラールまでの距離は500キロ。

飛行機で最寄りのディレダワという町へ飛ぶ方法もあったが、今回は長期の旅。時間はそこそこあるが、お財布は心もとない。

出来る限り、安く済ませるためにも、バスで向かうことにした。バスの場合、10時間ほどかかるらしい。

アディスアベバで、ハラールへのバスチケットを購入し、ホクホク顔でホテルへ戻った時のこと。ちょうど、ホテルのオーナーと鉢合わせた。

ホテルで初めて知ったのだが、オーナーの母親はエチオピアのJICAで長らく働いていたらしく、日本とのつながりがある人だった。

「明日、バスでハラルに行くんですよ」

「この時期にバスに乗るのは危険よ。どこのバス会社?」

この一言で、一気に暗雲が立ち込めた。話を聞くと、現在エチオピアでは大統領選挙を控えており、特にオロモ族が暴れているとのことだった。

エチオピアは部族社会である。部族の数は80以上とも言われており、中でも人口の34%と最大規模の人口を誇るのが、このオロモ族なのである。

そのオロモ族が、対立する族を襲撃する事件が多発しているらしい。バスに乗ること自体は危険ではないが、道中に襲撃を受ける可能性があるという。

オーナーがバス会社に電話し聞いたところ、私が乗り込むバスは、オロモ族に”襲撃されない”バス会社だということが判明した。

それでも、このご時世ではジモティーですら飛行機を使うという。襲撃されてはかなわん!ということで、あっさりとバスチケットを手放し、飛行機で移動することにした。

奇妙なアナウンス

翌日、アディスアベバの空港へ行くと、悪天候のため飛行機がキャンセルになった。我々がそれを知らされたのは、出発予定時刻から1時間たった時のことである。

アディスアベバは、アフリカ最大の航空会社にして、国営会社でもあるエチオピア航空の本拠地である。コロナウイルスにより欧州や中東の航空会社が次々と運行を停止する中でも、エチオピア航空だけは世界各地へ飛行機を飛ばしていた。

アディスアベバのボレ空港には、2つのターミナルがある。1つは外国人観光客をお迎えする立派な作りの国際線ターミナル。もう1つは、小さなオンボロターミナル。国内線や近場からの乗客を迎える場所である。

今回利用するのは、オンボロターミナルだ。待合室で搭乗開始を待っていると、乗客にお呼びがかかる。いよいよ、搭乗かと思いきや、搭乗ゲートを通り何やらバスへ誘導される。ついたのは隣にある国際線ターミナルだった。

そこから、大きな荷物も持って長い階段を上り下りし(エスカレーターが壊れていた)、「ここでとりあえずメシでも食っていきな」とラウンジに案内される。乗客たちは炊き出しのごとく列を作り、無料のビュッフェランチにありついている。

みながご飯でお腹いっぱいになった頃、ようやく「今日のフライトはキャンセルです!明日の朝8時に空港に集合してください」と係員がアナウンスするのであった。

これまでのアトラクションは一体・・・

そんなわけで、アディスアベバにもう1泊することになった。どうやらディレダワ辺りの天候が悪く、着陸ができないんじゃね?ということを後でホテルのオーナーから聞いた。

アフリカの族が本気を出したら

翌日は、問題なく飛行機が飛んだ。ディレダワ空港で観光客と思しきカップルが声をかけてきた。

エチオピアに住むジモティー男性と、スペインからやってきた女性のカップルである。エチオピア男性は、「タロウ」と名乗り、そこそこ流暢な日本語を勝手に披露した。

カップルも同じくハラールへ向かうようだが、送迎を手配していないらしい。私が手配していた送迎に相乗りして行くことになった。

迎えを待っている間、「最近、オロモ族が暴れているらしいよ」という話になる。

「知ってる〜。うちらもちょうどその現場を目撃したんよ」

そう言って、女性がスマホで撮影した動画を見せてくれた。そこに写っていたのは、田舎の集落に、次々と炎が上がっている様子だった。銃を手にした男もいる。

ルワンダの大虐殺・・・?

映画で見たワンシーンが重なる。族が暴れると、こうなるのか。改めて、アフリカの族の本気度を思い知った瞬間だった。同時に、やっぱり飛行機で来てよかった、と思うのであった。

さて。いよいよ、イスラーム教第4の聖地を名乗る謎多きハラールへと潜入していく。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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