イラク南部にある第3の都市バスラ。お隣のイラン国境までは約15キロ、そしてクウェートまでは約50キロの場所にある。
バグダッドから始まり、ここバスラで我々の旅は終わる。
かつては第2の都市でもあったが、バグダッドのような活気や華やかさはない。よく言えば素朴だが、どこかうらぶれていた。
バスラが美しかった時代
どんな老いぼれにも、輝かしい時代はある。それは人だけではない。都市もまたそうである。
イラク南部のはじっこに位置するバスラは、かつて中東のヴェニスと呼ばれた場所だった。

1920年代のバスラ。中東のヴェニス感が出ている。
14世紀に活躍した大旅行家、イブン・バトゥータもこの地を訪れ、イラン・イラク戦争が始まる1980年代前には、多くの観光客が押し寄せたという。
これらだけを聞けば、「バスラって、何て素敵な場所でしょう」と、ワクワクしてしまう。
哀愁ただよう現在のバスラ
しかしヴェニスの面影は、今はどこにも見当たらない。
巨大な精油所があり、港湾都市でもあるバスラは、石油製品を輸出する重要な場所でもあった。
ゆえにイラク戦争時には、”重要都市”として米軍に目をつけられ、イラクで最初に侵攻された場所でもある。
戦争が終わり、これから復興するぞ!という気合も入った頃。2015年には、「ザ・ブライド」と呼ばれる高層ビルの建築プロジェクトも予定されていた。
完成すれば、ドバイのブルジュ・カリファを抜き、世界一の高い建物になるはずだった。
が、現在のバスラを見れば、夢物語である。
イラン・イラク戦争で最前線となり、湾岸戦争、イラク戦争で攻撃を受けた都市。バスラは、そうした過去の戦争の傷跡を今だに引きずっている。
果たして、バスラという場所で観光というものが成立するのかは、定かではないが、バスラにある見どころスポットをいくつか見ていこう。
バスラ旧市街
16~17世紀の建物が残る、バスラの旧市街。旧市街と言っても、廃墟一歩手前の建物が並ぶエリアといった方がしっくりくるかもしれない。
見どころは、建物にくっついている”シャナシール”と呼ばれるバルコニー。かつてバスラは、”シャナシールの街”という異名も持っていた。

シャナシールの町と呼ばれたバスラ旧市街

建物の上部に見えるのがシャナシールと呼ばれるバルコニー
観光客である我々は、このシャナシールを見て、過去の歴史に想いをはせるはずだった。
が!
我々を襲ったのは、建物の下を流れる川から発生する強烈な異臭であった。通常の路上では、まず発生しないような激臭だ。
シャナシールどころではなく、えづきそうになるのをこらえ、涼しい顔を装う努力が、ここでは求められる。
サダムフセイン政権時から、市民の生命線とも言える川の汚染が問題となっている。汚染があまりにもひどすぎて、飲料水として飲めないどころか、数百人以上の市民が病院送りになったそうだ。
「こんなところに住めるもんじゃねえ!」といって、4万人以上がバスラを離れたとも言われている。
街の一角には、チャドルを着た女性が地べたに座り込んでいた。妙齢の物乞いらしい。
歴史を伝える貴重な建物ではあるが、なにせ通常の生活を営んでいくだけでも、今のバスラ市民は精一杯なのだ。
ゆえに、こうした文化遺産の保護は、後手に回っている。建物の劣化具合がそれを静かに物語っていた。
バスラ湾クルーズ
バスラ観光の目玉となるのが、このバスラ湾クルーズだろう。遊覧船に乗って、バスラの港湾を30分ほどかけてまわる。
川を遊覧していると、度々現れるのが沈没船。
そのほとんどがイラク戦争時に米軍の爆撃を受けて、放置されたままのものである。巨大な積荷場所もあり、確かにバスラが重要な港湾都市であったことが分かる。

シャット・アル・アラブと呼ばれる川。川はペルシャ湾にまで続いている。

川の真ん中に横たわるサダム・フセインのプライベートクルーズ

サダム・フセインの宮殿
川では、釣りをする市民の姿も。釣りしか娯楽がないのだろうか、と思うぐらい、ちびっ子から大人までとにかく釣りをしている。

沈没船の上で釣りをするジモティー
その釣りスタイルも様々で、堤防で釣る人から、沈没船や発泡スチロールの箱に乗って、川の中心部で釣りをする猛者など、様々である。
市民の食卓を支えるスーク
バスラ市民の食卓を支えるマーケットには、魚、野菜、肉、果物、パンなど、食に関するあらゆるものがそろっている。
バスラの街中は、どちらかというと色味がない。川の水は汚染され異臭を放っているし、道端にはゴミが散乱し、ハエがめちゃくちゃたかっている。お世辞にも、きれいな場所とは言えない。
けれども、ここだけには鮮やかな色がある。色とりどりの果物は、美しく並べられ、それはまるで印象派絵画のようでもあった。

ドンキーコングファンがいると見えたる

印象派絵画のような果物売り場

マーケットでは、魚を売る女性もちらほら。国民食であるマスグーフに使われる鯉をはじめとして様々な魚が売られていた。

バーゲンセールのごとく、洋服売り場にたかるジモティー女性

パンやスイーツを売るショップ

野菜は基本キロ売り
イマーム・アリ・モスク
アラビア半島の外で、初めて建設されたモスク。建設されたのは、635年。バスラの中心地からやや離れた場所にある。もともとは、簡素なヤシの木で作られたが、今日に至るまでに、何度か改修されその形を変えている。

正面から見ると、クモの足ような形をしている
エデンの園、アダムの木
ここバスラは、エデンの園があった場所とも言われている。エデンの園と言えば、アダムとイヴが、禁断の果実を口にし、楽園を追われた、という話で知られる。
バスラの中心地から車で約20分の場所にある、小さな公園には「アダムの木」と名付けられた木が存在する。
名前の割には、大きさもスケールもさして特別感がないが、現地ではその体でやっているらしい。「疑惑の木」ということにしておこう。

疑惑の木もといアダムの木
エデンの園が実際にどこにあったかは、定かではない。バスラの他にも、バーレーンもまたエデンの園があった場所と言われている。
バーレーンには、「生命の木」なる巨大な木があるのだが、どちらかというと、こちらの方がそれっぽい。
ユーフラテス川とチグリス川の合流地点
疑惑の木の近くには、ユーフラテス川とチグリス川が合流する地点がある。2つの川は合流し、ここで「シャット・アル・アラブ」という1つの川になる。
市民の憩いスポットにもなっているらしく、釣りをする青年やファミリーたちでにぎわっていた。

チグリス川とユーフラテス川が合流する場所

優雅に釣りをする少年

地元のキッズ。国の状況は大変だが、がんばっていただきたい。
バスラ・メモリアル
第一次世界大戦中に起こった、オスマン帝国とイギリス軍との戦いで、亡くなった兵士たちが眠る墓。バスラから車で20分ほどの場所にある。あたりは砂地で何もない。

無名戦士たちが眠るバスラ・メモリアル

大英帝国軍の戦いのもとで命を落とした兵士たちの名前が刻まれている
イギリス軍ということであるが、記念碑に刻まれた名前を見ていくと、多くのインド人兵士たちも、この戦いで犠牲になったことが分かる。
インドはイギリスの植民地であったから、こうした戦には多くのインド人兵が駆り出されたのだろう、と大英帝国の歴史を感じる場所でもある。
バスラは、イラクの中でも比較的大きな都市ということもあって、交通の便もそれほど悪くない。ドバイやドーハなど近隣都市へのフライトは頻繁にあるし、バグダッドからは鉄道も出ている。
港湾にかかる大きく近代的な橋や、街中にあるファーウェイやサムスンの巨大広告を見れば、都市として、成長を期待されているのも見てとれる。
けれども、路上を見る限り、その成長を許さない何かが、このバスラにはうずまいているようだった。
それは、すぐに消滅するものではなく、今後もしばらくバスラを呪縛するような気がした。

