日本にいたころは、なぜ外国人が日本の文化に惹かれるのかわからなかった。なにせ彼らが惹かれるものといえば、我々からみると「古くさい」と思うようなものばかりだからだ。
折り紙、茶道、忍者、サムライ、着物、和柄などなど。どれも現代の日本人にとってはそんなにクールなものではない。
当の我々といえば、明治時代の人間のごとくパンケーキだとかハワイだとか、パリジェンヌだとか洋物ばかりにかぶれている。逆に古いもの=ダサいという感覚すらある。
しかし、海外で4年ほど暮らし改めて日本をみると、さほど魅力的に見えなかったものが、なぜだかすごく魅力的に見えてくるのである。
たとえば、着物や侍。今や世界の大半の人は洋服を着ている。その事実を鑑みて、着物や侍の格好を見てみると、なんと興味深い服装なのだろうと思う。湾岸諸国の人々は、民族衣装と呼ばれるアバヤやカンドゥーラをきているが、あのシルエットがどことなく侍や着物姿にも似ているのだ。
折り紙をプレゼントしたらひどく喜ばれた。こんな紙で作った鳥をもらって嬉しいものかと半信半疑だったのだが、反応は逆だった。日本人にとっては当たり前だが、ペラ紙で鶴を作るなんて、たぶん日本人ぐらいしかいない。つまりは、ものすごいスキルだったりするわけだ。
このように改めて思い返してみると、そのほとんどは海外にないものばかりである。日本オリジナルなのだ。けれども日本人にとっては当たり前すぎて、その良さがわからない。古いものはダサい。だから、そうしたものを脱ぎ去ろう、忘れ去ろうとする。
けれども、日本オリジナルの伝統の技や心を忘れて、洋物を追いかけていくだけで良いのだろうかと思う。西洋化することは近代化することでもある。着物や刀を捨てて、洋服を着ることはあの時の日本人にとっては欧米と並ぶために必要なことだった。
けれども、どの国も近代化してしまってはその先にあるのは、均質な世界なのではないかと思う。便利だけれども、みんながZARAをきて、ルイ・ヴィトンバッグをさげているのは、ちょっとつまらない。
別に着物を着るべき!だとかは思わない。けれども、せめてそうした己の国の伝統や文化ぐらいは、自分の中にとどめておきたいと思うのだ。