一度、かいだら忘れられない匂いがある。
その正体は「乳香」だ。一見するとなんの変哲もない石ころのように見えるが、実はその正体はまあロマンと歴史あふれる塊なのである。
乳香とはなんぞや?
乳香は英語でフランキンセンスとも呼ばれる。簡単に言えば、ボスウェリアと呼ばれる木からとれた樹脂の塊だ。人差し指の第一関節ほどの大きさで、色は白乳色をしている。
ソマリアのプントランド、イエメン、オマーンなどが主な生産地である。
オマーン産の乳香。質がよいものほど透明に近い。ソマリア産のものは黄色がかっており、香りが少ないのだという
古代から現代へと通じる神秘の香り
古くは古代エジプト時代から儀式や宗教的行事に乳香が焚かれていたと言われている。その当時、エジプトで使われていた乳香は、現在のプントランド(ソマリア)があるプント王国から運ばれたものだと言われている。
古代エジプト時代に書かれた「死者の書」には、「地上に落ちた神の汗」などと言われ、心身を清め邪悪なものを遠ざけるために使われたという。当時のハトシェプスト女王は乳香や没薬を集めるのにずいぶんと必死だったらしい。
ツタンカーメンの副葬品としても乳香がちゃっかり入っていたり、あのクレオパトラも乳香を好んだという。このようにとにかく、古代エジプト人は日常的に乳香を楽しんでいたようだ。
エジプト南部にあるカラブシャ神殿には、乳香を焚くローマ皇帝アウグストゥスが彫られている
ちなみに現在のプントランドでも乳香はとれるのだが、なにせソマリアの乳香のクオリティはオマーンに比べるとだいぶ劣る、というのが乳香に詳しいオマーン人の見解だ。プントランドに関しての詳細は拙著「ソマリアを旅する: アフリカの角の果てへ」を参照いただきたい。
イエスの生誕時に送られた高級ギフト
乳香にまつわるストーリーとしてもっとも有名なのが、イエスが誕生した時の話だ。イエスがエルサレムで生まれた時、東方から3人の博士がやってきた。その博士たちが生誕祝いとしてプレゼントしたのが、「乳香」、「没薬(もつやく)」、「金」だったという話だ。
これはそれぞれ、金は現生の王、乳香は神、没薬は人間の病気を癒す救世主を意味している。
乳香、没薬、金を運ぶ東方の三博士
カトリック教会でよく目にするこの煙の正体も乳香
そのほかにも旧約聖書には、シバ王がイスラエルのソロモン王に会いに行く際に、手土産として大量の乳香を持参したと書かれている。このように旧約&新約聖書では、乳香に関する記述は多くある。
「没薬」に関しても面白い話がある。「没薬」は、「ミルラ」とも呼ばれる。プント王国からは没薬も運ばれていたそうで、ミイラを作る時の防腐処理に使われていた。そのため「ミルラ」が「ミイラ」の語源になったとも言われているのだ。
こちらが没薬。オマーンではあまり出回っておらず主にイエメンで取れるという。
イエスにプレゼント?しかも古代エジプト人も乳香を使っていた?熱心なクリスチャンじゃなくとも、古代エジプト専門家でなくとも、その甘い響きにつられてしまわないか。いにしえより愛された神秘の香り。それが現代の我々も楽しめるのだ。この事実にワクワクしてしまうのは私だけだろうか。
乳香はどんな香り?
香りというのは、非常に言語化しづらい。シトラスだとかラベンダーなどと言ってくれば、簡単なのだが「乳香」と言われても、想像し難い。
それに日常生活でかいできた、どんな匂いとも違うのだ。あえていうなら、「神々しい香り」。乳香は焚くと煙がかなりあがるので、そんな白煙と相まって神々しい空間を作り出すのだ。
ある人は、「深い森に抱かれたような安心感と清々しさ」と表現したがこちらもしっくりくる。
現代の私でさえ、「なにコレ!?こんな神々しい香りかいだことねい!」と思うのだ。古代エジプト人だって、「やべ、この香りめっちゃクセになるわ」と言っていたことを確信できる。たぶん今なら古代エジプト人と、乳香の良さについて語り合えるような気さえする。
乳香はどのように使われている?
さて、単なる塊のように見えてロマンと歴史が詰まった乳香であるが、いかにして使うのだろうか。
オマーンを中心とするアラビア半島では、乳香を焚いてルームフレグランスのようにして楽しむのが一般的だ。おそらくこの方法は、古代エジプト時代とさほど変わらないのではないかと思う。香炭を熱して、その上に乳香を置いて香りを立ち込めさせるのだ。
乳香の焚き方についてはこちらの記事を参考にされたい。
一方で薬として使われることもある。中国では鎮痛剤として使われていたり、乳香を焚いた香りにはリラックス効果があると言われている。中にはがん細胞にも効くという調査も出ているらしい。
乳香の産地、サラーラに住むオマーン人は「薄緑色の乳香を1つペットボトルの水に入れておくんだ。翌朝にコップ1杯、その夕方にもう1杯飲むと体にいいんだぜ」という健康法を披露してくれた。
実際に感じる範囲では、確かにリラックス効果はあると思う。なんでもPMSの軽減にもつながるとかで、乳香を焚き始めてからPMSがだいぶ楽になったような気もするのだ。個人的な実感なので、確実とはいえないが。
このように単に焚いて香りを楽しむのがアラビア半島での一般的な使用法だが、ヨーロッパでは主に医薬品や精油に加工して使われているようだ。
世界遺産に登録された「乳香の土地」
オマーンのドファール行政区には、世界遺産に登録されている「乳香の土地」がある。乳香の交易の跡地や乳香の木がある土地など乳香に関する4つの場所を総称して、そう呼んでいる。つまりこの地域は、世界でも数少ない乳香の産地なのだ。
「乳香の土地」の1つ、ワディ・ダウカ乳香公園では政府所有の1,000近くの乳香の木が保護されている。
ワディ・ダウカ乳香公園
今では政府が管理している乳香の木だが、昔はこの地域に住んでいた部族がそれぞれ管理していたのだという。当時は乳香の木自体を売買することもあったのだとか。ちなみにオマーンには現在も100以上の部族がいるという。
どの木からも乳香をとっていいわけではない。10年以上の木からのみ採取することになっている。乳香の採取期間は、3月から8月までで期間によってもクオリティが異なり、とりわけ品質がよい乳香がとれるのが4〜5月(7~8月という人もいるので結構バラバラ)にかけてとれたものだという。
乳香の木は大きくなっても高さ6~7メートルほどにしかならないという
オマーンで生産される乳香には4つの等級がある。最高級品はアル・ホジャリ(Al Hojari)と呼ばれる。その次にナジディ(A’Najdi)、シャザリ(A’Shazri)、シャビ(A’Sha’bi)と続く。「シャビ」は主に海岸近くでとれるもので、「ホジャリ」が乾燥して透明な色をしているのに対し、「シャビ」はやや黒ずんでいて粘着性がある。
意外なのは呼び名は違っても、同じ木からとれるのだという。ただ、木が生息する場所によって、乳香の品質が異なるのだ。ちなみに上記の木からとれるのは、「ナジディ」。
ナイフで樹皮を削ぐと、白い樹液が溢れ出す。これが固まると乳香になる。触るとベタベタ。舐めてみると木の深い味がする
1~2週間後にやってくると樹脂が固まって大きくなる
さらにその樹皮を天日干しで数週間乾かしてようやく市場に出回る品となる
乳香の本場で体験する、さまざまな乳香の楽しみ方
かつては金と同額で取引されていたという乳香。しかし、現在ではその価格は落ちてしまい、庶民でも簡単に手に入るようになっている。
ドファール行政区の中心都市、サラーラの中心部にあるアル・フスン・スーク(Al Husn Souq)には、多くの乳香屋が集まる。どの店も乳香を焚いているので、乳香の煙で辺り一面が霧がかっているような怪しげな雰囲気を醸し出している。
サラーラにあるアル・フスン・スーク
この乳香の香りが気になるな〜というと、すぐに焚いてくれる
乳香は何も乾燥した樹脂だけではない。乾燥した乳香に香り付けのオイルなどを加えた商品なども売られているのだ。
店主のおばちゃん自作の香り付け乳香と乳香オイル
左の3つが乳香。右端は沈香。
現代にも古代エジプト時代と同様に、乳香を焚いて楽しむ人々がいる。古代から変わらぬその香り。スークに集まる人々は、熱心にお好みの乳香を手に入れていた。一度香ればその虜になる。「香り」を紹介できないのは残念だが、ぜひ一度は体験していただきたい香りである。