英語以外の言語を学ぶメリットとは?アラビア語を学ぶ社会人の視点

社会人になってからアラビア語を勉強し始めた。そして、最近では本格的にアラビア語を勉強しようとカイロに短期留学に行った。

ははあ、さぞかしアラビア語に熱心な方なのね、と思われるかもしれない。

しかし、実のところ、アラビア語学習に対するモチベーションはほとんどない。というか、なぜアラビア語を学んでいるのか自分でもよく分からない。

言語習得のモチベーションがねい!

私とアラビア語の関係は冷めきった熟年夫婦みたいなもんである。昔のようなパッションはないが、ただの惰性により学び続けている。そんな感じだ。

もちろん学び始めた当初は理由があった。アラブ人と会話をしてみたいである。

しかし、アラビア語には罠が仕掛けられており、文語用、会話用と2種のアラビア語が存在する。書き言葉も話し言葉も同じじゃないの?と思うのが一般的だろう。しかし、アラビア語に関しては、古文と現代文ぐらい違うのである。

この罠に気づかず、私は文語用のアラビア語を選択してしまった。これが運の尽きである。巷にいるアラブ人たちは、この文語用のアラビア語を理解しない。

アラブ人なのにアラビア語がわからないのか?

アラビア語だけれども、アラブ人に通じない文語用のアラビア語。

なんやこれ・・・完全に騙された!

言語にクーリングオフは適用できない。

文語用のアラビア語を学ぶ限り、アラブ人と話すことはできないのだ。そして、学び始めてから半年ほどで学ぶ理由を失った。

けれども、せっかく勉強したのにここでやめるなんてもったいない!という精神で、1年半近く独学でアラビア語を学んでいる。

正直なところ、アラビア語なんて全然役立たないなあ・・・と思いながら勉強し続けている。仕事にしろ、生活にしろ、情報収集にしろ、ほとんどのことは英語で済むのだ。

これ以上、別の言語を学んで何になる?

異国の言語を通じて別の自分に出会う

他の人がいったいどういうモチベーションで、言語を学んでいるんだろう?と気になり『わたしの外国語漂流記』という本を手に取った。簡単に言えば様々な言語を学んだ人による、言語習得の苦労エッセイ集である。

中でも印象的だったのが、アムハラ語を学ぶ文化人類学者の手記である。

“アムハラ語を話すと、自分の性格まで変わる感じがする。それはたくさんのエチオピア人と言葉を介してやりとした動きやリズムが体に刻まれているからだ。異なる言語を学ぶ面白さは、別の自分と出会えることになる。複数の言葉を話すことで、僕らはいろんな体を出入りすることができるのだ”

確かに。

英語を話している自分と日本語を話している自分は、まるで違う。英語では社長だろうが平社員だろうが、「ハロー、元気でっか?」と平等に声をかける。日本語では、目上の人々には「まいど、お世話になっておりますー」と低頭平身でごますりすりである。

そう。我々は単に違う言語を話しているわけではないのだ。

別の言語を話すとき、その言語の文化に生きている。言語が違えばマナーやルールも違う。言語によって生きる世界もまったく変わるのだ。

さらに、筆者によればアムハラ語にはざっと250ぐらいの文字があり、同じ音なのに3種類の文字があるらしい。

げげっ。アラビア語の方がかなりマシなのでは・・・?

文字が存在しない世界

さらに、言語学者ともなると、我々の人知を超えたレベルのモチベで言語を学んでいた。それが『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき』である。

筆者は主にパキスタンをフィールドとしてパキスタンにあるあらゆる言語を調査している。絶滅の危機に瀕している少数民族の言語から、文字をそもそも持たない言語までと様々だ。

パキスタンといえば、ウルドゥー語でしょ?と浅はかな知識しか持ち合わせていなかったので、とにかくパキスタンの多様性に驚かされる。

筆者はどうやらアンチ資本主義のようで、文系の学問が社会に出てあまり役立たない、本当に学ぶ意味があるのか?という姿勢に対して、こんな言葉を投げかけている。

“「文系」の学問等のは、どちらかといえば精神の涵養のための分野であって、一朝一夕で社会を豊かにできる類のものではないだろう。

国立大学に文系の学部はいらないといった言論があった。それは、日本社会に精神的豊かさはいらない、一部の金持ちがさらに金儲けできればいいと言った、浅ましく、利己的で、眼前しかヴィジョンの開けていない発想だと思う”

そう。実用性や効率性だけを考えていたら、文字を持たない言語だとか、少数民族の言語をわざわざ学ぼうとは思わない。けれども、利益や効率を追求するだけでは、見えてこないものもたくさんある。

“日本で生活をし、例えば日本語以外の能力を活用して海外の書籍を読んだりインターネットに勤しんだりしていても、文字のある言葉の世界しか見れていない可能性は高い”

文字を持たない言語は、文字のない世界を見せてくれるらしい。それは、文字のない言語を知る者にしか見えない世界である。

始めから必要性やメリットがわかったらつまらない

正直、アラビア語を学んでいて実生活で役立ったなあ、ということはほとんどない。けれども、楽しいことはたまにある。

例えば、モスクにいった時に壁に書かれているカリグラフィーが読めたり、一見アラビア語とは関係なさそうに見える、スワヒリ語やウイグル語の単語が理解できたりする。

天空の城ラピュタに登場するムスカの「読める、読めるぞ」という、あの瞬間が結構味わえるのである。


学んだこともない言語が読める、読めるぞ!

これを聞いて、アラビア語を勉強しよう!という人はいないだろう。

けれども、アラビア語を学んで初めてわかったのだが、意外とアラビア語は他の言語にも関連があるということ。

アラビア語の文字が分かれば、ペルシャ語やウルドゥー語なんかもおぼろげに読めるのである。スワヒリ語単語のうち30%はアラビア語由来で、日本人にも馴染みのある旅という意味のスワヒリ語「サファリ」も、アラビア語から来ている。

かつてイスラーム帝国の支配下にあったスペインの言語にも、約4,000語のアラビア語由来の単語があるという。「アルコール」や「アルカリ」などもアラビア語で、実は意外とアラビア語由来のものは、日常にある。

ここまでくると、言語を学ぶのにメリットや必要性なんかなくてもいいんじゃないか、と思う。むしろ、学んだ先に何が起こるのだろう?という期待を持ちつつ、学ぶのもアリなんじゃないかと思う。

資本主義社会に生きていると、仕事や将来役立ちそうな言語か、実用的なメリットがあるのか、といったことを先走って考えてしまう。だからこそ、実用性のなさそうな言語を学ぶことは、無駄のように見える。

だからといって、話者数が多い言語や仕事や実生活で役立つ言語だけが、存在する世界も面白くない。

言語が別の世界観へ入り込むチケットみたいなものだとすれば、メリットや必要性を考えずとも、言語を学ぶのもありなんじゃないか。・・・と、とりあえず、自分に言い聞かせている。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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