ドバイが貧しかった時代。石油以前のドバイを切り取った日本の写真家がいた

ドバイの歴史や伝統を物語る催しや、博物館を訪れることはあっても、石油以前のドバイに対するイメージはおぼろげなものである。つまり、よくわからない。

資料が少ないし、観光スポットにあるドバイの昔の生活を再現した展示品も、マネキンたちは妙にリアルすぎるのだが、全体像は見えてこない。

ドバイで石油が発見されたのは1966年のことである。それ以前の、1962年にドバイを訪れ、当時の様子を写真で記録していた日本人がいた。それが、産経新聞のカメラマンだった川島吉雄氏だ。

その写真を見つけたのは偶然だった。たまたま、DIFC地区というドバイの金融センターに、面白そうなギャラリーがあることで立ち寄ってみたのだ。

DIFC地区というのは、東京でいえば六本木みたいな場所である。そして、金融関連の会社が多くあることから、すかしている奴が多い、というのが私の印象である。

金融関連の会社だけではなく、高そうな絵画を売るギャラリーや、おしゃれな高級レストランなども集まっている。高級なフュージョン日本食レストランで有名な「Zuma」もここにある。

洗練されたビル街を行くのは、スーツをビシッと着込んだやり手のリーマンたちである。そんな場所で、いかにもできそうな金融リーマンと、これまた才女みたいな美女が、ハグをしていたりする。なんだこれは。

普段は、服装自由なIT系企業が集まる界隈で過ごしているためか、そんな姿がまぶしい。


歩いているだけで、イケてるリーマンになった気がする

お目当てのギャラリーは、そんな洗練された人々が行き交う場所にある。ギャラリーといっても、気軽な催し物とかいうものでなはない。

作品のコンセプトは意味不明だが、とにかく値段が高いといった商業に特化したギャラリーである。いくつかギャラリーがあるのだが、どれも銀座の高級ブランド店ばりに、入りづらいのである。

そんな入りづらいギャラリーが並ぶ一角にあるのが、「The Empty Quarter」と名付けられたギャラリー。アラビア半島最大の砂漠の名前に由来している。日本語では、「空白の4分の1」と呼ばれる砂漠だ。


The Empty Quarter

ギャラリーは、時期によって催しが異なるのだが、今の時期に行われていたのは写真展らしかった。展覧会名の名前は「ドバイ 1962」。案内書きを読んで、これらの作品が日本人のものであることを知った。

その偶然に驚くことはあれど、それ以上に驚かされたのが、写真に映し出された過去のドバイの生き生きとした姿だった。

ギャラリー公式サイトで、紹介されている写真からいくつか引用してご紹介。


 

展示されている作品は、20枚ほどだったが、ギャラリーで販売されている写真本にはそれ以上の写真が掲載されていた。すぐに、それを買い求めた。写真というよりも、資料である。

いまでこそ、ミラクルな成長を遂げたドバイだが、当時の様子からすれば、果たしてこのままの生活で大丈夫なのだろうか、というぐらい心もとないものだった。

人々はヤシの葉で作られた掘建小屋にすみ、辺りは砂漠だらけ。車はドバイでも数台しかなく、頭にものを乗せて運んだり、ロバを使うのが一般的であった。

今では噴水だの人工池などを作って、ドバイの街は以外にも水や緑に溢れている。けれども、1962年の写真には、限られたパイプから飲み水をやっと手に入れて、顔をほころばせる老人の姿が映し出されていた。

この地に川島氏が降り立ったのは、シャルジャにあった英国軍が管理していた飛行場。といっても見渡す限り砂漠である。

当時、この地域はUAEではなく、休戦海岸と呼ばれ、英国の保護領であった。入国のビザ取得も容易ではなく、川島氏はイギリスでビザを取得した後、この地にやってきたのだった。

川島氏は、ドバイについてこんなメッセージを残している。

ドバイには人の心を和ませる不思議な力がある。
カメラは表面しか写さないが、なんとかここの人々の心を写したいと思った。

その言葉通り、写真は単なる記録や風景写真というよりも、見るものをどこかほっとさせてくれるものがあった。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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