聖書の内容はキリスト教徒でなくとも一般的に知られているものが多い。有名な話で言えば、ノアの箱船や最後の晩餐などである。
一方でイスラム教の聖典、コーランについてはあまり知られていないことが多い。つい最近までイスラム教はマホメット教だの回教だのと言われていたほどだ。どれだけ日本におけるイスラム教の理解が遅れているかがわかるだろう。
今や世界には16億人以上のイスラム教徒がいるというのに、コーランの内容を知らなすぎるのはちょっと寂しい。そんなわけでコーランにまつわるあれこれをご紹介。
1分で理解するコーランの内容
何千ページもあるコーランを逐一読んでいるヒマなんてない!そんな人のために、コーランのエッセンスを簡単にまとめてみた。
コーランとは?
- コーランは預言者ムハンマドが神から受けた啓示をまとめたもの
- アラビア語で書かれたもの
- イスラーム教徒にとっての聖典
- コーランの原義はアラビア語で「誦まれるもの」を意味する
- イスラーム教徒にとっては、コーランは預言者ムハンマドが起こした「奇跡」だと考えられている
- 全部で114章からなる
コーランの内容
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イスラームの神、アッラーと預言者ムハンマドへの信仰
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多神教の否定
イスラームの聖地があるメッカを含むアラビア半島では、イスラームが興る前人々は多神教を信じていた。
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来世について
イスラーム教徒にとって、現生は単なる仮免期間。本番は来世から始まる。天国はどんな様子なのか。天国へ行くため現生で何をすべきか、といった部分も細かく書かれている。
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イスラーム教徒の生活規範
イスラーム教徒が口にしてはいけないものについて。飲酒をしてはいけない、豚を食べてはいけない、といった例は有名。
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社会の法律
クルアーンは単なる個人の行動を規範するものにとどまらない。社会のあり方さえも規定する内容が含まれている。例えば犯罪者の罰則の仕方、利子の扱いに関してなど。
そもそもコーランは、小説のようにストーリー仕立てになっているわけではない。聖書でれば、簡単である。神の子イエス・キリストの生涯を描いたイエスの奇跡のストーリーなんて具合だ。
一方のコーランは、どちらかというとポエムのような感じ。「誦まれるもの」という原義にある通り、字面で読むというよりも、声に出して読み上げるものである。
イスラーム教徒にとってコーランとは?
イスラム教徒にとって「コーラン」とは行動規範集のようなものである。決して、神とその周りにいる人々をめぐる面白いストーリー集なんかではない。その点が新約聖書と大きく違う。
それにイスラム教においては、信仰しているんだったら態度で示せ!ということが求められる。決してキリスト教や神道のように、「心で神様においのりすればいいのれす!」といった生半可な態度は許されないのだ。
キリスト教徒ははたから見たら、信徒かどうかわからない。けれどもイスラム教徒の場合、とりわけ女性はたいがい一発で分かる。スカーフで髪を隠していたり、肌を覆っているケースが大半だからだ。男性の場合も服装や定期的にモスクへ足を運んでいるのをみると、「ああ、イスラム教徒なんだな」と分かる。それが目に見える形で教えを実践しているということなのだ。
コーランには何が書かれている?
何やらイスラム教というのはルールが多そうである。聞くところによると、酒を飲んではいけないだの、豚を食べてはいけないだの、というそうじゃないか。
確かにコーランには、やってはいけないもの、やらないほうがいいものなどいろいろと細かく規定されている。これにはルール好きの日本人もげんなりである。
コーランで書かれている行動規範の例
- イスラム教徒の心得
- 断食の時期、やり方
- 楽園に行くための現世での心得
- 1日5回の礼拝の仕方、金曜礼拝のススメ
- 女性の服装について
- 結婚、離婚のプロセス
- 食事規定
- 利子についての取り扱い などなど
その中でも、六信五行というものがある。六信五行とは、6つのものを信じて、5つの行いをせよ、ということである。これがイスラム教徒の重要な義務である。
6信:アッラー、天使、啓典、預言者、来世、天命
5行:信仰告白(アッラーの他に神はなしと証言)、サウム(斎戒&断食)、礼拝、、喜捨(寄付で社会に貢献)、メッカへの巡礼(可能であれば)
関連記事:酒、豚肉、世俗の味にさようなら。イスラム教に改宗した日
ちなみにこれは宗派によっても異なる。以上であげた6信5行はスンニ派。シーア派はまた少々違うのだ。同じイスラム教徒なのに、違うものを信じて実行していても、同じイスラム教徒と言えるのだろうか・・・と個人的には思うのだが。
コーランはいかにしてできた?
世界的ベストセラー「聖書」の著者は今に至るまではっきりとしていない。一方でイスラム教のコーランは、どうなのだろうか。
希少価値が高い限定部数発行の「金のコーラン」。活版印刷が広まるまではコーランは1冊ずつ書き写しされていた。
言われているところによると、預言者ムハンマドが洞窟にこもっていた時のことである。なぜ洞窟にこもっていたのか。人間関係が嫌になったのか。ただ一人っきりになりたかったのか。ムハンマドの真意はわからない。
とにかくもムハンマドが洞窟で瞑想していると突然、天使が神々しい光とともに現れた。そこでムハンマドは天使の声を聞くことになる。この天使の言い伝えをまとめたのがコーラン、だと言われている。
しかし勘のいい人は思うかもしれない。
洞窟にこもっていると天使の声が聞こえた?通常ではありえない現象である。
個人的にはムハンマドは精神に何らかしらの異常をきたしたムハンマドが、幻聴を聞いたと考えるのが普通じゃないか。と私は現代風に解釈している。
しかし、純粋なムスリムたちはこの異常事態を疑うことなどしない。「ムハンマドが天使から授かったのがコーラン。これぞこの世の奇跡だよ」などと真顔で語るのである。
ちなみにムハンマドは文盲である。自分で天使の教えを書き残すことはできない。であるから、ムハンマドから教えを聞いた周りの人々がそれを書き残したとされている。
編者が何人もいるためか、コーランには同じような箇所が何度も出てくる。さっきも言ってたじゃん!といったようにダブりが多いのだ。
コーランはつまらない読み物?
聖書と同じ感覚で、コーランを読もうとすると愕然とする。聖書は、「昔々あるところにアダムとイヴがいまして、楽園で仲良く暮らしていました〜」みたいな物語風に話が進んでいくが、コーランは違うのである。
1ページ目からいきなり「神の名において〜」といった宗教ワールド全開な文字が踊るのである。こんな感じで言葉が連なっていくので、1ページ目で飽きてしまうこと間違いなしなのである。
関連記事:コーランのアラビア語が読めるようになるまでの道のり
一見するとコーランはつまらない、と思いがちだ。それもそのはずコーランはそもそも「暗唱するもの」。黙々と読むような小説や物語ではないのだ。どちらかというポエムのような感じ。「声に出して読みたい日本語」ならぬ「声に出して読むべき聖典」なのである。
アラビア語以外のコーランは存在しない
イスラム教は原理原則を重視している。どういうことか。イスラム教にといては、アラビア語で書かれたものしか聖典の「コーラン」と認めないのである。しかもその内容は、預言者ムハンマド時代から変わっていない。
アラビア語で書かれたコーランの一節
他の言語に翻訳されたものは、コーランではない。あくまで参考書扱いなのだ。それはアラビア語=神の言語と考えられているため、神の言語をいじくりまわしたものは、もはや神の言葉ではない。そう考えるのがイスラム教である。
一方でキリスト教では、日本語やフランス語に翻訳したものも「聖書」として扱う。容易に聖書の教えに触れることはできるが、翻訳によって原意からはずれてしまう。イスラム教はしっかりと元祖からの教えを受け継ぐというのがルールになっている。
イスラム教徒が従うのはコーランだけじゃない!
ちなみにイスラム教徒が日々の生活で従っているのは、コーランの内容だけではない。イスラム教徒たちにとっては、預言者ムハンマドはカリスマアイドルみたいなものである。
ゆえにコーランとは別で「ハディース」というものも世には出回っている。これがイスラム教のカリスマこと、預言者ムハンマドの言行をまとめたものである。コーランだけでは物足りない信者たちは、このハディースを見て「なるほど、預言者ムハンマドはこんなことをしていたのね」といって、自分たちの行動規範の軸にする。
そのほかにもコーランではカバーしきれない部分があった時、ハディースではどう書かれているのだろう?といった形でも引用される。
日本人はイスラム教徒っぽい?日本人が知らずに実践しているコーランの教え
ムスリムの中には、「日本人は知らずにイスラム教の教えを実践しているよね」という人もいる。自称無宗教者を名乗る日本人がイスラム教徒と同じことをしている?どういうことか。
例えば、何事にも精を尽くそうとするさま。苦しい仕事や部活でも必死にがんばる。そんな辛いことから逃げずに、とにかく努力をする。それがイスラム教でいうところの「ジハード」に当たるというのだ。
時にこの「ジハード」は聖戦などと訳され、テロ行為などにつながっているという解釈をされることがある。しかし、本来は奮闘や努力をするという意味を持っている。
その根底にあるのは、人間は弱い生き物だという考え方。誘惑に流されそうになっても努力で自制する(例えば部活が辛くて辞めたいけど、頑張って続けるといったような)。こうしたことをコーランは促しているのである。
コーランがすべてではない
コーランの教えにのっとって行動しているイスラム教徒だが、時に迷える子羊になることもある。なにせコーランが書かれたのはずいぶんと昔。今とは現状が異なる。それに、コーランの教えもアバウトな箇所が結構ある。
例えば断食。断食中はつばを飲むのはありなのか。歯を磨くのはありなのか。プールで泳いでいる時に謝って水が口に入ったら断食は無効になるのか。コーランには断食せえよ、と書いてあるが、細かいルールは記されていない。
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そんな時にイスラム教徒たちが頼るのが、先ほど紹介した預言者ムハンマドはいかにしたのかという「ハディース」や、歴代法学者達の解説書もしくは近所のイマーム(礼拝を先導する人)のアドバイスを参考にするのである。
コーランとその解説書が並ぶ本屋の一角
自分のルールで断食をやればOKというわけではなく、あくまでコーランで規定されている断食を遂行するためにイスラム教徒たちも必死なのである。さもなければ断食をしたとみなされないからだ。
イスラム教徒はみんなコーラン通りに行動している?
イスラム教徒とはいえ、すべての人がコーラン通りに生活をしているかというとそれは違う。
そもそもアラビア語というのはネイティブであっても習得が難しい。アラビア語を正しく学ばないと、コーランの教えがわからない。16億人はいると言われているイスラム教徒たちが、みな完璧なアラビア語力があるとも限らない。
礼拝のためモスクに集まるイスラム教徒たち
生まれながらのムスリムであっても、コーランの教えはようわからん、みたいな人もいる。
そんなわけで、コーランには書いてあっても実戦レベルは人それぞれなのだ。実際に私の周りにも断食はするけど、肌や髪を覆わない人やムスリムでもお祈りをしない人もいる。
日本語でコーランを読むには?
本来であればアラビア語版を読むのが好ましいが、アラビア語を学習してコーランを読むなんてハードルが高すぎる。そんな人におすすめなのが、コーランの日本語訳書である。先述した通り、これはあくまで「翻訳書」なのでコーランではない。
現在、日本語で出版されているコーランの翻訳書といえば大まかに以下の2つがある。岩波版は古くからあるもので定番のコーラン翻訳書。Kindle版もあり持ち運びも便利だ。一方で、作品社の翻訳書は、自身もムスリムだという中田考というイスラーム法学者によるもの。
はたから見ればルールばかりの宗教と思われるかもしれない。けれどもコーランを読んでいると現代の我々の生活においても学ぶことが結構ある。それにコーランをアラビア語で聞くとその美しさに感動する人も多い。日本でそのような体験をするならば東京の代々木にある東京ジャーミイがおすすめだ。
マンガでゆるく読めるイスラーム
普通の日本人がムスリム女性と暮らしてみたらどうなる?「次にくるマンガ大賞」や「このマンガがすごい!」などでも取り上げられた話題のフィクション漫画「サトコとナダ」。
イスラム教やムスリムのなぜ?が分かる、対談形式のマンガだから分かりやすい!ムスリムの日常や中東料理、モスク、ファッションといったカルチャーまで。イスラーム入門本はこれで決まり!