単身で海外生活をしていると、よく寂しさがひょっこり現れる。
まるで霊に取り憑かれているぐらい寂しさにまとわりつかれる時もある。寂しさに取り憑かれすぎると、時には半狂乱に至ってしまいがちだが、よく言えば寂しさは自分の時間がたっぷりとあることを意味する。
以前は寂しさを持て余したことがあったが、最近はしばしば寂しさを感じるのは本気で生きていないということでもあるような気がする。一種の恥じらいだ。
何かに熱中していたり、ひたむきにやっていたりするとそんな寂しさは現れることがない。だからこそ、寂しさを感じるときは、何かに夢中になっていないと烙印を押されるような気がしてならない。
「すべての男は消耗品である。」で村上龍が寂しさについてこんなことを書いていた。
現代が寂しさに充ちているのは、否応なく「個人」が露わになったからだ。権威のある集団に属していれば一生安泰で大切にされる時代状況ではなくなった。今の日本社会における「個人」は、自立する人が増えたことによって概念として確立されたわけではなく、企業や地域社会による「庇護」がなくなったために無理やり弾き出されるようにして「露出」したものだ。
生き方を自分で選ぶ時代には必ずその種の寂しさが露わになる。その寂しさは自由の代償でもあるのだが、寂しさに向かい合うのは、簡単ではない。
村上龍「すべての男は消耗品である。 Vol.12」より引用
寂しさは自由の代償。まさにドバイでの海外生活ではそれをよく実感した。自分の自由意志によって、働きたい国を選び、会社を選び働いている。いつドバイを去るかというタイミングも自分の意思に委ねられている。
ありったけの自由を満喫しているように思っていたし、その選択に満足もしていた。けれども、はたと気づけば自分の最大の所属先である日本という拠り所を失い、まわりには同じ国の同志たちもいない。環境が変わることで悩みを分かち合う相手すらも失い、孤立無援の状態になっている。まさに一人海を漂流しているような気分だ。
と一人寂しさにふけっているように見せかけても、上には上がいてさらなる孤独のプロたちがごまんといるのだ。繊細な孤独のプロと私が密かにあがめている井上靖の詩集から一説ご紹介しよう。
むかし「写真画報」という雑誌で“比良のシャクナゲ”の写真をみたことがある。
その写真を見た時、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかに立つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆられ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろうことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと−−−。
ただあの比良の峰の頂き、香り高い花の群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを思うと、その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらぬものに思えてくるのであった。
「井上靖詩集(新潮文庫)」より引用
こんな風に寂しさというのは時には、人のより繊細な部分を先鋭化させもするし、クリエイティビティの触媒にもなり得るようだ。そう考えれば寂しさもそんなに悪くないかもしれない。