アラビア半島の宝石箱イエメン。そして不思議の島ソコトラへの道程

アラビア半島を歩いていると、どうしてもイエメンというエキゾチックな場所に惹かれてしまう。避けては通れないのだ。

なにせ古代ギリシャや古代ローマの時代には「幸福のアラビア」と呼ばれていた場所である。なぜか。古代エジプトの王やイスラエルのソロモン王にも献上されたと言われる「乳香」がオマーンのドファール地方やイエメンでとれたからだ。

「神の香り」を生み出した土地

「乳香」は別名「神の香り」とも呼ばれる、木の樹脂である。この樹脂を熱した香炭の上におくと、神秘的な白い煙とともに、神々しい香りがたちこめる。


オマーンやドバイのスーク(市場)で売られている乳香。乳香には4等級あり、うす緑をしているものほど品質が高いと言われている。水に溶かして薬として飲む習慣もまだ残っている。

高級ブランドの香水がおしゃれ☆などという感覚が流布している今では、香りを楽しむものとしては、世界では見向きなどされない。現地の人々が、ひっそりと焚いて香りを楽しむぐらいである。

しかし、かつては金と同じような価値を持ち、不思議な香りに魅了された人々は、一攫千金を狙ってこの地に押しかけた。イエス・キリストが誕生した時、東方の博士たちが「乳香」を生誕プレゼントの1つとして持参した、という話もある。

当時の人々は、ラクダでオマーンで取れた乳香をイエメン、サウジアラビアを経由して、エジプトやイスラエルに運んだ。そのルートは、「香りの道」とも呼ばれている。そんな「乳香」交易で栄えたのが、イエメンのハドラマウト地方にあるシバームやタリムといった都市だ。

アラビアの魅力がつまった宝石箱

さらにイエメンといえば、希少にして最高級ハチミツ「シダル・ハニー」でも有名。シダルの木は、イスラーム教の聖典「コーラン」でも、聖なる木として登場する。「シダル・ハニー」はオマーンやUAEでも購入できるが、なにせ高い。1キロで1万円近くもするのだ。

マヌカハニーと同様に抗菌作用が強く、母親に食べさせたところ「はちみつを食べてから調子がよいのよね」というぐらいである。

西洋医療に頼りっぱなしの現代人からすれば、ハチミツごときで体調がよくなるもんかい、と思うだろう。私もその手の一人である。

しかし、「病気になった時は、はちみつを食べるのが一番」などと真顔で語るムスリムや、今でもイエメンではハチミツが薬として使われていることを考えると、あながち嘘ではないような気もする。

そしてイエメンならではの独自の文化や風景。アラビア半島のそれとは大きく異なる。アラブ人にいわせれば、イエメンは「心のふるさと」を思い起こさせるらしい。

イエメンといえば、泥やレンガで作られた高くそびえる建物群。中でも有名なのは、「生きた博物館」とも呼ばれる首都サヌアにある旧市街の町並みだろう。

文化や歴史に飢えている人間からすれば、まるで「アラビア半島の宝石箱」のような場所である。

別の惑星!?世にも奇妙な植物が自生するイエメンの離島

一方で、イエメン本土から約400キロほど離れた場所にあるソコトラ島。アラビア湾とインド洋がちょうど交錯する場所に位置する。

「インド洋のガラパゴス諸島」とも呼ばれ、島にはこの世のものとは思えぬ奇怪な植物が生えている。中でも有名なのが、「竜血樹」と呼ばれる木。


ソコトラ島に生えている「竜血樹」と絶滅危惧種にも指定されている「エジプトハゲワシ」

一度見たら忘れられない、そのビジュアル。その奇怪な植物みたさに、観光客がわざわざやってくるのだ。

そのほかにもキテレツな植物があるが、そのほとんどがソコトラ島の固有種であり、絶滅の危機に瀕しているものも多い。まあ、キテレツ島といったところだ。そのユニークぶりが認められてか、ユネスコの自然遺産にも登録されている。

イエメン渡航を即決。世界は待ってくれない

かねてよりイエメン、ソコトラ島には興味があったのだが、なにせこのご時世。簡単に入国できる国ではない。しかし、2018年からポツポツと旅行者がイエメンに行っているようだ、という話を聞きつけたのである。

ソコトラ島には、いくつか旅行会社がある。2015年にイエメン本土で内戦が起こる前までは、ヨーロッパや日本からもよく観光客が訪れていたのだ。2013年には、3,000人ほどの観光客が訪れたという。

しかし、内戦が始まると観光客が激減し、会社のサイトはあっても業務は停止しているという旅行会社がほとんどだった。

はたから見れば、別に即決でイエメンに行かなくてもいいじゃないか、と思うかもしれない。しかし、悠長な決断を待ってはくれるほど世界は甘くない。

治安が安定している日本ならいざ知らず、途上国も多く抱える中東地域では、常に変化が起きている。それは開発や発展といった前向きな変化もあれば、内戦によって街が破壊されるといった負の変化もある。

そうした変化によって、歴史的な遺跡はもちろん、人や町並みさえも劇的に変化する。そうした変化は外見だけでなく、そこに住む人々の内面すらも大きく変える。

世界は均質化しつつある

前向きな変化で、都市が発展する。インフラが整いどこへでも安く、短時間で行けるようになる。24時間快適なネット環境の中で、人々は朝から晩までスマフォをのぞきこむ。街に繰り出せば、スタバやKFC、マックといったお馴染みの顔ぶれがそろう。

便利で快適ではあるが、一方で街も人々も均質である。均質な社会にあまり面白みはない、と私は思う。だから前向きな変化は歓迎しつつも、どこか世界が同じような方向性に向かうのは、つまらないと感じることがしばしばある。

オイルマネーで発展した湾岸諸国は、どこも同じような顔ぶれである。流入している外国人労働や、政治、社会システムも似たり寄ったりである。

ぶいぶい成長しているドバイもまた、最近では細かいルールだのといって、日本みたくお役所的になっている。社会や経済にしろ規模がでかくなると、それを維持するために、様々な制約が発生するようだ。

管理が行き届いているようで、そうした制約が多い社会というのも、どこかつまらない。結局は、同じようなパターンにいきつくからだ。

やりたいことはやりたい時にやれ

ちょうど、ソコトラ島という島に興味をもったのは、ドバイにきて間もなくのこと。2015年の11月の頃である。

しかし、悲しいかな。

ソコトラ島を知った直後に、島の歴史にも残るような巨大なサイクロン、「サイクロン・メガ」がソコトラ島を含め、オマーン、ソマリア一部地域を襲った。

アラビア半島というと、砂漠をイメージする人は多いだろう。しかし、このあたりでは、6月から8月のモンスーンの時期には、洪水で死者を出すほどの多量の雨が降る。

2018年にモンスーン時期にオマーンのサラーラに訪れた時のこと。サイクロンの被害に巻き込まれた人を助けるため、車で助けに行く途中に多量の水にのまれて友人を失った、というオマーン人男性がいた。

砂漠で溺れ死ぬ、というのはなんとも想像し難い。しかし、地域によっては起こりうるのである。

当時もソコトラ島の旅行会社に連絡をとってみるものの、すでに営業を停止していたり、そもそもイエメン行きの飛行機がない、という状態になっていた。

サイクロンの被害に加え、長引くイエメン内戦。その間、ドバイでせこせこやっているうちに、すでに4年も経っていた。4年はけっこう長い。高校生であれば、大学を卒業して社会人になっているじゃないか。

過去のブログ記事を読み返すと、サイクロンの被害でソコトラ行きを逃した教訓として「人生何が起こるかわからないので、やりたいことはすぐやった方がいい」としている。そして、「しばらくしたら行くからな!ソコトラ島」と締めくくっていた。

そして宣言通り、イエメン&ソコトラ島に行くことにしたのである。

絶たれた道のり

しかし、アラビア半島の宝箱にたどり着くのは容易ではない。

内戦が始まって以降、ドバイからソコトラ島への直行便は消滅してしまったし、普通に航空券予約サイトで探してもイエメン行きのフライトはでてこない。

ツテもないので、とりあえず片っ端からソコトラの旅行代理店に連絡をしてみる。そこで一番最初に連絡が取れたソコトラの案内人、ムハンマドに提案された以下の方法は2つ。

1. エジプトからイエメン南部に飛行機で行き、そこから乗り継ぎでソコトラへ行く
2. オマーンのサラーラから陸路でイエメンに入り、そこから飛行機でソコトラに行く

スケジュールの都合上、オマーンのサラーラから陸路で行く方を選んだ。オマーン経由で行く方が時間はかかるが安かったというのもある。

そして大半の有給を、イエメン渡航に費やしてしまった。まだ3月だというのに、すでに年の有給の3分の2を使い果たしてしまった。今年は1月から立て続けに、休暇をとりまくっているので、ほとんど働いていないようなもんである。まあ、よい。

アラビア半島では、外で過ごしやすくなるのが11月から3月なので、活動もその時期に集中するためしょうがないのだ。

4月以降は、40度以上の灼熱地獄が待っているので、ドバイはゴーストタウンと化し、私はクーラーが効いた部屋にこもる。ドバイ、私ともに活動を休止する時期となる。

アラビアの宝石箱へのビザはどう手に入れる?

さて、次の問題はビザである。これも案内人ムハンマドによれば、ビザをコピーを送ってくれれば、手続きはこっちですべて済ませるという。

あっけなくクリアである。

ビザのコピーをメールで送り、指定された前金をソコトラに住む受取人にウェスタン・ユニオンで送金する。数日たつとビザのコピーなるものが送られてきた。

ん?

これは本物なのか?一応、公式文書っぽい体裁ではあるが、どうも内容がちゃちい。公式文書にブロック体で、名前やパスポート番号、入国の目的がうさんくさくちりばめられている。これが偽装ビザなら、なんとも雑なクオリティである。

前金は結構な額を送った。中目黒にある1Kマンションを1ヶ月借りれるぐらいの金額である。しかし、返ってきたのはうさんくさいビザである。

騙されているのか?

急に疑心暗鬼に陥る。そしてそれはソコトラ島に着くまでにつづくのだった。

ネットが発達しても手に入らない情報は多々ある

そもそも、イエメンへの渡航方法はイエメン内戦が始まって以降、確立されていない。だから、何が正解かがわからない。

一応、信用できる人からの紹介とはいえ、自分が交渉している相手が信用できるのか、果たしてイエメン入国が本当に安全なのか。

事前に治安や基本情報は仕入れておくが、それでも現地に行ってみないとわからないことは、多くある。そして、少ない過去の経験から、時に恐怖や不安や「見えない」、「知らない」ことによって無意味に巨大化していることを学んだ。

昔の人々が、空想の巨人や謎の生物に恐怖心を抱いたのも同じような原理である。

逆に言えば、手元にある情報や見えているものだけでは、断片的なものしか見えない、ということである。

イエメン内戦のニュースだけを頼りに、怖い、危険な場所と決めつけるのか。どこで実際に空爆や戦闘が行われているのか、を現地の案内人を声を聞きつつ、安全が確保される場所を探し出し、現地に赴くのか。

渡航方法やビザ取得など、思ったよりもスムーズに進んだことで、どこか気が緩んでいたのだろう。

この時には知る由もなかったが、後でこの気の緩みを大きく後悔することになる。

さらには、それが予定を大きく狂わせることにもなるのだ。

イエメン取材計画のジャーナリスト、出国禁止事件

深夜にドバイを発ち、午前4時にオマーンの第2の都市、サラーラの空港に到着する。そこから車に乗り継ぎ10時間ほどかけて、イエメンとの国境まで行き、一気にイエメン南部の都市、セイユーンに行く予定だ。

何度も足を運んでいるオマーンだが、今回だけは気がかりな点が1つあった。

イエメン渡航を計画した直後のことである。イエメンに渡航しようとしたジャーナリストの常岡浩介氏が、外務省から旅券返納命令を受けていたことがわかり、日本を出国できなくなったというニュースが流れた。

なんでこのタイミングなんだ・・・

常岡氏は、2018年1月にオマーンからイエメンに入国しようとしたが、オマーンで入国拒否。今回はスーダンからイエメン入りしようとしていた、とのことである。

もしやすると、オマーンで入国を断られるかもしれない。

おまえみたいなパンピーが心配する必要がどこにあろうか、と思われるかもしれない。確かにこの件だけを見れば、そう思う。

けれども、かつてアフガニスタンに行こうとしたところ、ビザが取れなかった。毎年のようにアフガニスタンへツアーを組んでいるイギリスの会社を通じて、すべて必要な書類をそろえていた。けれども、日本の外務省の推薦書が必要とのことで、ビザは結局おりなかったのである。

世界最強パスポートの意外な落とし穴

外務省の言い分によれば、国連職員などごく限られた人間以外には、レターを発給していないのだという。つまりは、日本の一般市民は事実上渡航を制限されている、ということだ。

その他の国も同様の対処をしていれば、まだわかる。しかし、イギリス、アメリカ、カナダ、ドイツ人たちが、難なくビザを取得しているのを見ると、どうみても政府が渡航を規制しているように思えるのだ。

だから、日本政府はイエメンへの渡航者に対しても同様の扱いをするのでは、と嫌な憶測をしてしまったのである。

しかし、そんな心配をよそにあっけなくオマーンに入国することができた。

国境付近まで連れて行ってくれるオマーン人ドライバー、カーリッドと合流。真っ暗闇の中を国境向けて走り出した。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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