アラビア湾を渡ってソコトラ島へ。ダウ船の旅、始まる

約束の朝8時。「ここにこい!」と招集をかけられた港のオフィス前で、しばらく待つと係員らしき人物が現れる。

パスポートのコピーをとられ、書類を渡された。それからしばらく待つこと、1時間ほど。なにやら大荷物を抱えたバックパッカー風の男女カップルがオフィスに現れた。

工業地帯からの船出

どうやら彼らが、「同乗者」らしい。私は人見知りなので、早急に「あなたたちもソコトラ島へ?」などと軽々しく尋ねずに、まずは距離を置いて観察するという作戦に出た。

どんな動物だって、最初は見も知らぬものが現れたら、とりあえず距離を置くだろう。そしてじっと様子を見る。それが動物本来の姿なのだ。

その後、オマーン人職員に招集をかけられた我々3人は、建物の2階にある別室に連れて行かれた。ビザに関する簡単な質問をされたかと思うと、気づかないうちに「出国」が完了した。注射を嫌がる子どもに、医者が話しかけながらことを済ましてしまう状況さながらである。

パスポートには、ちゃんと出国スタンプが押してあった。

「ソコトラから船で戻ってくる場合は、ちゃんとオマーンのビザを取得しておかないとダメだからな」という職員。

そうなのだ。急遽、船でソコトラ島へ行くという予定変更を迫られたため、帰路も変更せざる追えない。

カップルは、事前にオマーンのマルチプルビザを取得しており、帰りもソコトラからサラーラへ戻るつもりだという。

この時点で、ソコトラ島からオマーンに戻る船の見通しは立っていない。あったとしても、それがいつなのかはわからない。しかし、ないものを考えてもしょうがないので、とりあえず考えることをやめた。

とりあえずソコトラ島に行って、帰りの道を探すしかない。

「出国は済んだな。船の乗り場まで連れて行ってやる」。そういう職員に促され我々は、建物の外に駐車してあった彼の車に荷物を積み込み、出港地へと向かった。

関係者しか入れないゲートをくぐると、大型トラックが行き交い、遠くにはコンテナやいくつもの巨大クレーンが見える。一般人の出国とは無縁そうな場所である。

何だこの工業地帯感が満載な場所は。


違法感が漂う出国への道

そんな場所でも、4匹ぐらいのワンコが闊歩していた。オマーンは、イスラーム教の国だが、とにかくワンコが出没する。

羽田空港にも劣らない近代的な設備のマスカット空港の敷地内にも、ワンコが紛れ込んでいたのを目撃したことがある。車がびゅんびゅん行き交う市内の芝生でも、ワンコ一家がすやすやと寝ていたりするのだ。

5分ほど工業地帯のような場所を走り、車がとまる。

「おまえたちが乗る船はこれだ」

我々の目の前に現れたのは、年季の入った木造のダウ船だった。オマーン人の案内人と、ダウ船の船長が「こいつらをよろしく頼むわ」などと会話している。

ソコトラ島までの片道の船賃、200ドルをオマーン人の案内人に手渡す。200ドルが果たして高いのかどうかはわからない。しかし、ソコトラ島に行けるのならこの際なんでもよいのだ。

「お前たち、ラッキーだぞ。良い船長にあたったな」

そう言い残して、オマーン人職員は去っていった。

海のシルクロードとダウ船

事前にファイサルからは、「船と言っても食料を運ぶような貨物船だ。クルージング船なんかじゃないからな。期待するなよ」と言われていた。

それが、まさかあのダウ船だったとは。


我々がこれからお世話になる木造のダウ船

思わぬダウ船の出現。ダウ船に乗れるという願ってもないチャンスが現れたのだ。

ダウ船はアラブの歴史を語る上では、欠かせない必須アイテムなのである。

その起源は定かではない。1世紀頃にギリシャ語で書かれた古代の航海案内書、「エリュトゥラー海案内記」にはすでにダウ船は登場している。わかっているのは、歴史以前から使用されているということだけだ。

歴史以前からアラブ人たちは、このダウ船を乗り回し世界をめぐっていた。といっても、現代の我々がやるような旅行なんぞではなく、彼らの目的は交易や移動である。

東アフリカからアラビア半島そしてインド、中国までをつなぐ「海のシルクロード」の繁栄を担ったのも、このアラブ人たちである。当時から、砂漠のラクダに対して、ダウ船は「海のラクダ」とも呼ばれていた。

それほど、アラブ人にとってダウ船は日常的な移動手段でもあり、商売に欠かせない道具でもあった。

歴史以前からダウ船を乗り回し、世界に先駆け航海術に長けていた、アラブ人の過去の栄光についても少し触れておこう。

教科書でもおなじみのポルトガル人探検家ヴァスコ・ダ・ガマ。ヨーロッパからインドを航海した最初のヨーロッパ人とほめそやされているが、ガマの水先案内人をつとめたのはアラブ人航海士、アハマド・イブン・マジードであった。

さらに日本の室町時代に、明との勘合船貿易において、航海術、造船技術を日本に教えたのもアラブ人だったと言われている。

アラブ人をべた褒めすぎじゃないか、と思われるかもしれないが、あくまでも公平性につとめただけである。

ガマの一件以降、「大航海時代の始まりじゃ!」などといってアラブ人に代わり東方貿易の主導権をヨーロッパにすっかり握られてしまった。

それをいかにも、ヨーロッパが優れていたからだ、と多くの人は認識しているようだが、それはアラブ人という影の立役者がいてこその話なのである。

今でもこうしたダウ船は、現役で活躍しており、ドバイ初期の港湾として栄えたドバイ・クリークで見ることができる。

衝撃の告白

オンボロ船にときめく私とは対照的に、同乗者のカップルはさっさと船に乗り込んでいった。


乗組員が荷物を運んでくれた

船に乗り込みものの30分ほどは、見慣れぬ船上ではしゃいでみる。しかし、その船上見学もすぐに飽きて、ひたすら船に積みこまれていく大量のセメント袋を眺めるだけの退屈な時間がやってきた。

この時点で、すでに洗礼は始まっていたのだ。

船に乗り込んだのは午前11時。まあ、多めにみても8時間ぐらいで着くだろうから、今日中にはソコトラ島につけるだろう、と考えていた。

「は?なに言ってんの。この船だとソコトラ島まで2日はかかるよ」

苦笑いを浮かべるカップル。これが彼らとのファースト・コンタクトであった。カップルの正体はロミとギョルギ。ブルガリアからやってきた。てっきりバックパッカーかと思いきや、仕事だという。

短編ドキュメンタリーを製作したり、国内のテレビ局などに映像作品を売っているという映像ジャーナリストのギョルギ。対してロミは、国内外で観光ガイドをつとめている。

そんな2人が出会ったのは、アラスカからメキシコまでを横断する企画だったのだという。なぜアラスカが出発点なのかはよくわからないが、聞けば企画のディレクターとそりが合わなかったようで、2人は途中で離脱したのだという。

2人の間に漂う、ただならぬ空気を察知した。

かれこれ乗船してから、数時間経つが、いまだ出発する気配はない。

我々が乗船している船と、ぴったりくっつくようにして、もう1つのダウ船が寄り添っている。我々の船はすでに荷物が積み込まれ準備万端なのだが、隣の船がまだ積み荷中なのだ。

まさか、隣の船が積み荷を終えるまで我々も待機なのか。

ゆうに50袋近くある大量の小麦粉袋の山と、それを船に積み込む巨大なクレーン車を見つめた。


奥に見えるのが我々が乗り込んだ船。船の隅から隅までしっかりと、小麦粉袋をつめていく。

最後のピース

イエメンの入国は思った以上に難しいものだった。

オマーン第2の都市、サラーラから陸路で片道10時間かけて、イエメン南部の町セイユーンに行き、そこから飛行機でソコトラ島へ向かう、というのが当初の予定だった。

しかし、陸路という選択肢がなくなったことにより、突如浮上してきた「船でソコトラ島に行く」という怪しげな選択肢に頼らざるを得なかったのである。

この時の私は知る由もなかったが、ギョルギやロミの話を聞く限り、それもまた確実ではなく、運試し的な要素があった。

そもそもサラーラからソコトラ島へは、定期的に船が出ているわけではない。事前に船で行くつもりで、サラーラ入りしたギョルギやロミは、船をつかまえるのに10日かかったのだという。

毎日、港のオフィスに連絡をするが「今日は船は出ていない。明日掛け直してくれ」。これが10日ほど続いて、ようやく乗れたのが、この船だったのだ。

私は、陸路がダメだった翌日にこの船に乗れたが、それすらほぼ奇跡的とも言える。有給という名の下にやってきているリーマンなので、もし10日待ちなどという状態になれば、ソコトラ&イエメン行きは、あきらめざるをえない。

そもそも彼らが船のルートを発見したのは、とある旅行家のブログがきっかけだったという。

それが「One Step 4Ward」というブログ。運営者はアイルランド出身のジョニー。彼はかれこれ10年以上も世界中を旅行していたことで、世界的にも知られている。

彼の旅の目的は、世界全197ヵ国を訪問すること。しかし世界197カ国のうち、195カ国を訪れたところで、イエメンの壁にぶちあたる。

ちなみに彼が目指す最後の国はノルウェーなのだが、ノルウェーには彼の親戚が多く住んでおり、旅の最後は家族としめたいということで、ノルウェーはキープされているのである。

つまり彼にとって実質上、イエメンが最後の国となったのである。彼のブログによれば、これまで数ヶ月ほどかけて何度もイエメン入国を試みたが、いずれも失敗に終わったのだという。その中に、私が失敗に終わった陸路での国境越えも入っていた。

しかし、彼はついにイエメンへの入国を果たす。正確にはイエメン本土ではなく、ソコトラ島なのだが。

そう、彼もまたこのサラーラから船にのってソコトラ島へ行ったのである。ちなみに、彼が船を捕まえるまでにかかった時間は8日であった。

船で行ける、という航路を見出したところで、別の不安もあった。なにせ我々が通るのは、イエメンとソマリア近くの情勢が安定しないアラビア湾である。

我々がこれから向かうソコトラ島は、天気が良い日にはソマリア本土からも目視することができる。それぐらいの距離感だ。ソマリアといえば、数年前に世界をざわつかせたソマリア海賊がいる。

ダウ船の後ろに停止している巨大な船を見上げると、何やら人のようなものが見える。よく見ると、オレンジのつなぎをきて覆面をしたマネキンだった。ギョルギいわく、ソマリア海賊よけだという。


オレンジの作業服を着たマネキン

2015年以降NATOの介入により、めっきり海賊被害は減っていたはずなのだが、まだいるのか。しかも、船体の周りには、ご丁寧に鉄条網も巻かれている。

そもそもソマリアにいっても、ソマリア海賊に会えるわけではない。海賊国家とも呼ばれたプントランドに数年前に訪れたことがある。しかし、見かけたのは人質資金で建てられたと思われる、海賊御殿のみだった。

日本でアイドルに会う方が簡単なのだ。もはやソマリア海賊は、レアキャラと化している。だから、それほどソマリア海賊を恐れる必要はないのだ。

むしろ心配すべきは、サウジの空爆である。2017年には、ボートでイエメンに向かうソマリア難民40名以上が、サウジが率いる連合軍の爆撃を受けて、亡くなったという事件が起きている。

間違って空爆されたら、もうどうしようもない。ソマリア海賊なら、まだ戦えそうな気もするが、空爆は逃げ場がない。というか、もう船に乗り込んでしまったので、あきらめるしかない。

そして船はまだ出発しそうにない。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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