イスラム教徒になってはじめて分かったこと

人間は視界で捉えていても結局自分の興味があること、自分が見ようとしているものしか見ていないと言われる。それを証明するために心理学でよく例に出されるのが、「見えないゴリラ」の実験である。

実験の被験者は、実験前に「白いTシャツを着たチームがバスケットボールを何回パスしたか数えてください」と指示を受ける。

動画ではバスケットボールをパスするチームの中をゴリラの着ぐるみを着た人が通り過ぎる。わけ実験後に「動画に何かおかしな変化はありましたか?」と聞かれても、白いTシャツを着た人が何回パスをするかという点に集中していた大半の被験者は「特に何もなかった」といってゴリラが通り過ぎたことを見落としていた。

そのことから人間は集中して見ている物事以外を見落としやすいということを説明している。

それと同様にムスリムになる前には注意してみていなかった、事象や視点がムスリムになってはじめて見えるようになったのである。

ドバイ生活3年目にして初めて見た光景

週末にぶらぶらと町を歩いていると、祈りの開始の合図、アザーンが近くのモスクから流れてくる。するとどうだろうか。週末で店が閉まり、シーンとした静けさが支配する町の建物からでくる人々が一斉にモスクへ歩き出す。

まるで海外ドラマ「ウォーキング・デッド」のゾンビのごとくゆらゆらとモスクに向かってみな歩いているのだ。

中には、「間に合わねえ!」と思ったのか走り出すゾンビ・・・いや人もいる。ドバイでは何かに間に合わないから走るという人間を見るのは非常にまれな光景だったので、何か懐かしいものをみた感覚におそわれた。

後を追ってみると、そこにはモスクに入りきらずにモスクの外に列をなし、祈りを捧げるイスラム教徒たちの姿があった。イスラム教色の薄いドバイにこんな光景があったとは。隙間なく列をつくり、人種や年齢もさまざまな男たちが一斉に祈りをささげる。その一糸乱れぬ動きの統一感は圧巻だ。

きれいに列をつくり電車を待つ日本人の姿に外国人が衝撃を覚えるように、新人ムスリムはこの先輩ムスリムたちの一糸乱れぬ統一感と信仰心にひどく心を打たれてしまった。

こ、これは・・・日本人の電車待ちスタイルをはるかに超越している。

また正座は日本人ぐらいがするもんだと思っていたら、ムスリムたちも祈りの中で何度か正座をするスタイルがあるのである。


目の前が飲食店でもモスク付近であればOKらしい

祈りの時間だというのに、先輩ムスリムが持っているマイ絨毯をみて、「やべえ。マイ絨毯いるの?持ってきてない」と一人パニクり、女子専用モスクの場所がわからず、ただ先輩ムスリムの祈る姿だけを眺め祈りのチャンスを逃す新米ムスリム。

一体私は今までドバイの何を見てきたのだろう。3年目にして初めて見たドバイの街角の光景だった。


礼拝帰りの野郎の列。この道路には99%男しかいない。

私がムスリムでなかった時、あれこれと興味を持って尋ねたり、観察していたのに結局あの当時の私にとってムスリムたちはまさに「見えないゴリラ」だったのである。

異教徒からみたムスリムとリアルのムスリム

それまでは、ムスリムはみな1日5回祈るものであり、誰もが等しく戒律を守っていると思っていた。ムスリムの生活や戒律についてムスリムたちに聞けば、一様にムスリムはこういうもんである、とムスリムとしてあるべき姿、一般論が答えとして返ってきたのでそれを間に受けていた。世界中のムスリムを一般化してとりあえずひとくくりにしてみていたのである。

けれどもムスリムになってみると、いろんなムスリムの姿が浮かびあがってくる。

改宗の儀式に立ち会ってくれた若きムスリム書生の話によれば、ムスリムの家庭で育ったムスリムの中には、イスラム教徒としての5つの義務(5行)を知らないものがいたり、逆に途中でイスラム教に改宗した人間の方がイスラム教について知識があり、敬虔なケースもあるという話だ。

確かに家庭の都合でなんとなくムスリムをやっているよりかは、途中から改宗した人間の方がそれなりにモチベーションが高いのはうなずける。

エスカレーター式に高校から大学へ入学した人間よりも、大学受験を経て入学した人間の方が学ぶ意欲が強いのと同じシステムだろう。

両親はムスリムではなく、自らの意思でムスリムになったという若き書生を見ても独学でアラビア語を勉強し、12歳の頃からコーランを勉強し4年かけてコーランを暗記したというツワモノである。はたから見ればコーランを暗記する暇があればもっと別のことを暗記した方がよいのでは?と思うが。

「これからは1日5回祈る」ムスリム同僚の告白

さらに今までは自称ムスリムを名乗っていた同僚たちの告白にも驚かされる。「おれはムスリムのいい手本じゃないから」とか、「お前がムスリムになったからこれから1日5回ちゃんと祈ることにしたわ」とか「ムスリムだけどモスクで祈るのは年に数回ぐらいだよ」といった「俺のムスリム論」を語り始めるのである。一口にムスリムといっても人々の実践レベルは様々なのだ。

また地域によってもその温度差はあるようで、あるアラブ人のムスリムの話によればイスラム教徒として特に敬虔なのがインドやパキスタン系のムスリムだという。

確かに先ほどのモスクで見かけた人々も、ほとんどが南アジア系だった。もちろんドバイの人口の半数近くがインド人、パキスタン人で構成されているとはいえ、別のモスクで目撃する人間も大概がそうした南アジア勢であまり街中の湾岸のアラブ人をモスク内で見かけることは少ない。

またシリアやヨルダンといったアラブ諸国の中でも比較的信仰心が高いと言われる地域からやってくる若者の中には、ドバイの生活するうちにより奔放になるものもいるそうだ。ホテルのバーやレストランに行けば酒が飲め、クラブやバーも多くあるドバイで一気に世俗デビューしてしまうらしい。

ムスリムとして好まれない行動に走るのを、母国の敬虔な家族やコミュニティの存在が歯止めをかけていたが、ドバイにはそれがない。それゆえドバイではじけてしまう気持ちも分からなくはない。

また口をそろえていうのが、モロッコやチュニジアあたりの人間はそこまで敬虔ではないということだ。特にモロッコ女子はエミラティ男子にモテる、なぜならモロッコ女子には魔法のような魅力があるからだ、といういまいち真偽のほどがわからないことを言い出すやつもいたが、同じイスラム教の国とはいえどもやはり国によって様々ななのだということを知る。

またムスリムとして生活していると話す人々や会話も変わってくる。ある日なんかは女子トイレで、ヒジャーブの位置を直しているイスラム女子と二人っきりになったため、「髪、隠すのむずいっすよね」とムスリム女子の先輩に話しかける。それを皮切りに初対面だというのに、彼女はヨルダン生まれのパレスチナ人であることを知り、一気に話が盛り上がってしまった。

ムスリムになったことで見えなくなったもの

一方で逆に今までははっきりと見えていたものが「見えないゴリラ」化してしまったものがある。今は逆にムスリムばかりを目で追ってしまうため、今までは意識してみていた韓国人が突然見えなくなったのである。

私が働く会社が入っているビルには、韓国の大手家電メーカーのオフィスが入っており、韓国人が多く働いている。韓国人を見ない日はないというぐらい、多くの韓国人がいるはずなのだが、気づけば韓国人たちを最近見かけないなあと思うのである。意識してみるといるのだが、なんとなくの視界の中にはうつっていないらしい。

もはや韓国人たちは自分に一番近く、注視する存在ではなくなってしまったようだ。それに置き換わったのが周りのムスリムたちなのである。

観察者としての立場を貫くため、当事者になるまいと決めていたのだが、いざ当事者になってみるとまた別の視点が浮かび上がってくる。それが異教徒という観察者の立場から届く範囲のものだったのかはわからないが、少なくとも私の場合は当事者にならなければ見えない世界だったように思う。

マンガでゆるく読めるイスラーム

普通の日本人がムスリム女性と暮らしてみたらどうなる?「次にくるマンガ大賞」や「このマンガがすごい!」などでも取り上げられた話題のフィクション漫画「サトコとナダ」。

イスラム教やムスリムのなぜ?が分かる、対談形式のマンガだから分かりやすい!ムスリムの日常や中東料理、モスク、ファッションといったカルチャーまで。イスラーム入門本はこれで決まり!

ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門
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サイゾー

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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