この記録は、日常生活では絶対に交わることのない、人見知りで内向的な人間と、社交の鬼である陽キャが暮らしたらどうなるのか、という壮大な人体実験に基づく。その行く末をご覧あれ。
パリピがやってきた
ひょんなことから赤の他人と共同生活をすることになった。その相手とは、インドネシアの部族ツアーで出会ったスウェーデン人、エリクソン氏である。
彼は6ヶ月ほど東南アジアを旅しており、インドネシアの旅が終わったらマレーシアに来るという。というわけで、「マレーシアに来るなら、うちに泊まっていいよ」とオファーをした。
あくまでも社交辞令として発しただけなので、本当に来られては困るのである。何せ私は人見知りだし、数日でも他人と暮らすことなど考えられない。気を遣ったり、気まずくなったり、全く持って良いことなどない。
しかし、空気を読まない陽キャはのこのことやってきた。おまけに、数日でいなくなるかと思いきや、「もう旅するエネルギーがねえわ」と言って、2週間も滞在することになったのである。
スウェーデンについて考える2週間
今までスウェーデンやノルウェーやらは、北欧の国という適当なイメージしかなく、スウェーデンについて思い馳せることなど、ほとんどなかった。しかし、曲がりにも何もスウェーデン人がいることにより、自ずとスウェーデンへの意識が啓発されることとなった。
世界では私の知らないところで、スウェーデンものに溢れていた。イケアはもちろん、音楽配信サービスのSpotifyや、ファッションブランドのH&Mもスウェーデン発。狐のマークでお馴染みのアウトドアブランド、フェールラーベンも彼の国から生まれている。
また、欧米という雑な括りによって、アメリカもヨーロッパも同じようなもんだと思っていたが、話を聞いていくうちに、アメリカと北欧の文化はかなり違い、人々の性格に限っては、意外と日本に似ているようにも思えた。
スウェーデンのおしゃれぶりにおののく
エリクソン氏は、他人の家に居候しているというのに、いつも上半身裸で家の中をうろついていた。ここはジャングルではないぞ。
しかし、その風貌からは想像もつかないオシャンティ生活を母国で送っていた。いや、当人にはおしゃれという自覚はないが、極東の人間からすれば、すべてがおしゃれに見えてしまうのである。
私の家にやってきて、「わあーすごい、おしゃれやん」と感想を述べたエリクソン氏だが、じゃあアンタの家はどうなの?ということろで、彼の自宅の写真をみたところ、これが見事までにイケアにあるサンプル部屋なのである。
アンタの家の方が、おしゃれじゃん・・・
たまに母国の友達とスウェーデン語で会話していたので、耳を傾けていると、なんという心地よさ。まるでイケアで流れているBGMとクリソツなのである。
ある時には、自宅でひまわりを育てているというので、へえーと適当に返していたら、見せられた写真のひまわりは、私が考えているフツーのひまわりではなかった。
それは、中目黒の一部のおしゃれ花屋にしか流通していなさそうな、おシャンティなひまわりであった。ブラッディオレンジとでも言おうか。色だけでなく、葉っぱの形ですら、我々がイメージするひまわりではないのだ。
ひまわりですらスウェーデンではおしゃれなのか・・・
そして極めつけは、スウェーデン人たちが最も高揚するというサマーパーティーであった。仲間と撮ったという何気ないパーティーのスナップショット。
H&Mのイメージ広告か・・・
と思うぐらい、気取らない服装が妙に板についたメンズたちと、真っ青なスカイブルーのコントラストが眩しすぎる。
さらには、パーティー参加者の頭の上に乗っかっている花冠。パーティーでは、老若男女問わずに、頭に添えるのだという。しかし、これがまた中目黒のおしゃれ花屋にしか流通していない花で作ったような、オシャンティ花冠なのであった。
パーティーに花冠という発想がすごいよ・・・
コミュニケーションの達人に学ぶ
路上へ出ると、エリクソン氏が陽キャの本領を発揮する。彼は、まるで歩くコミュニケーション教本だった。誰にでも気軽に挨拶をし、声をかけ、楽しそうにおしゃべりをするのであった。
スモールトークを苦手分野とする私にとっては、まるで別次元の世界を見ているかのようだった。パラレルワールドの発動である。
同じような場面でも、陰キャ視点と陽キャ視点では、こんなに世界が違うのか。
通常、コミュ力が高い人は芸人のようにジョーク力が高いのだと思っていたが、そうでもなかった。ジョークを発しなくとも、身の上話をしたり、プラスアルファの発言をするだけで、あら不思議。ビビデバビデブー。何気ない会話でも、華やかになってしまうのである。
また、私は表面的な会話が苦手で、その意味を見出せない浅はかな人間なのだが、エリクソン氏は容赦無く表面的な会話をひたすら続ける。しかし、初めは表面的であっても、最終的にはなんだか深い話になっていたりすることもある。
つまり、恐れずにひたすら発し続けること。良い会話をしようと、意気込まなくてもいい。瑣末な話でも、意外とそれは重要なエンジンとになり、会話を広大な海へと運んでくれるらしい。
陽キャだからこそ努力している
コミュ力が高い人というのは、もともとそういう人なのだと思っていた。だから、コミュ力が低い私は、もともとそういう人間なのだと思い込んでいた。
けれども、衝撃的だったのはエリクソン氏もコミュニケーションを円滑にするために、努力をしているとのこと。そう、ちょっとした努力の賜物が優れたコミュニケーターとなるらしい。
一方で私はといえば、どうせ自分には無理・・・内向的だし、とはなから決めつけて、努力しようとさえしなかった。
陰キャと陽キャは存在するのか
日本は特にラベリングが好きな国かもしれない。草食系、肉食系、パリピ、オタクなど、次から次へと新たなラベルを製造しては、一人ひとりに貼り付けていく。
そしてラベルは、同じレベル同士の人間には仲間意識を持たせるが、対立するラベルへの敵対意識をうっすら生み出す。時には、人間の序列にも関わり、時には見えない社会カーストを生成する。
当初は私もこの罠にはまっていた。その見た目と社交的すぎるエリクソンをパリピとなじり、自分を内向的な陰キャに落とし込めていた。ゆえに、我々は水と油で仲良くなることなど断じてない、と。
確かに、当初は苦労した。喋りっぱなしのエリクソンに付き合い、ほぼ起きている時間ずっと話していたところ、2日目あたりで喉が痛くなった。何せ、人とほぼ話さないことが日が何日も続くことがあるし、それも苦ではない人間である。
しかし、しばし様子を見続けていると、分かったことがある。陰キャであるはずの私にも陽があり、陽であるはずのエリクソンにも陰がある、と。しかも、陽キャの陰は、陰キャの陰よりも暗いと言うことも。むしろ、その暗い陰こそが、彼を陽キャたらしめていることにも、薄々気づいてしまった。
そう。人間は、ラベルのようにスパッと割り切れるものではないのだ。実はどちらも持ち合わせていて、どちらが強く出ているかによって、ラベル付けされるだけのことなのである。しかも、そのラベルすらほとんどの場合は、一方的なもので、ラベルにより人との出会いを遠ざけてしまう厄介なものになる。
人を見た目やラベルで判断すると可能性を失う
人を肩書きや見た目で判断するな!なんて言っても、世界はそう言うシステムになっている。マッチングアプリや婚活だって、職業、年齢、見た目から、その人を判断していく。
仕事場でも、同じような属性となんとなく集まりがちである。特に日本は世代や年齢で、括りがちなところがあるので、年の差が大きいと友達の対象になりづらかったり、年の差婚は時に議論の対象になる。
だからこそ、意識的に年齢や自分の中でむくむく起こるラベル付け欲求を排除し、心をオープンハウス状態にしなくてはならないのだ。
今回の実験で分かったのは、自分は多分こう言うやつとは友達になれないな・・・と思うやつに限って、実はベストフレンドになったりするものである。
自分はこういう人間なんだ・・・と決めつけすぎていた。しかし、どんな年齢であれ状況であれ、意外とそれは簡単にひっくり変える。
というわけで検証の結果、陰キャと陽キャは仲良くなれるし、むしろ大事なのは一方的に相手をラベル付けせず、心を開いてコミュニケーションをすることで、新たな可能性を見出せる、ということであった。